教会 Church
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
2000年前イエス·キリストは人々にこう呼びかけました。当時イエスの国(イスラエル、ユダヤ、ガリラヤと呼ばれる地域)では多くの民衆がローマ帝国の支配に苦しみ、宗教的指導者たちからも軽蔑されて、神に対する信頼も生きる希望も見失っていました。
イエスが確信していたことは、神はすべての人の父であり、父である神は苦しむ人間の姿を見て、胸を痛め、救いに近づいてきてくださる方だ、ということ、そして、神がすべての人の父であるならば、わたしたちはみな兄弟姉妹である、ということでした。どんなに神から程遠いように見える人も、人から差別されたり排斥されている人も、イエスから見れば、神に愛されたかけがえのない子どもであり、イエスの兄弟姉妹でした。イエスはこのことをことばで語っただけでなく、実際の人々との出会い·かかわりの中で伝えました。特に貧しい人、病気の人、心や体に障害を負った人、社会的に蔑視されていた人と出会い、その人々にいやしと希望のメッセージを伝えました。このイエスの活動は、多くの人の心に信頼と希望と愛を呼び覚まし、イエスに従う多くの弟子が集まってきました。
その一方、イエスの活動は当時のユダヤの社会的·宗教的指導者たちの反感を買うことになり、ついにイエスは十字架刑というむごたらしい方法で処刑されてしまいます。しかし、イエスは最期まで神に対する信頼と、人々に対する愛を貫きました。イエスの弟子たちは、このイエスの中に肉体の死を超えて神とともに永遠に生きる、本当のいのちを見いだしたのです。イエスが十字架の苦しみと死をとおして、憎しみと暴力と死に打ち勝ったという信仰をキリスト教は「復活」ということばで表します。
イエスが天に上げられた後、弟子たちはイエスのことを人々に語り、イエスを信じる人々の集いが生まれました。これが「教会」です。教会は、イエスを主·キリスト(救い主の称号)と信じ、イエスの跡を歩もうとする人々の共同体です。なお、人がキリスト信者になる儀式として、最初の時代から「洗礼」が行われてきました。
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ミサ Mass
復活された主キリストはご自分の体である教会に現存し、今も救いの働きを続けておられます。キリストの恵みは特別のしるしによって現実のものとなりますが、この神の神秘的な働きをわたしたちは秘跡と呼んでいます。
その中でもとくに主日のミサは大切なものです。一つの地域の信者が目に見えるキリストの体としてともに集まり、神のことばを聴き、キリストの死と復活の神秘にあずかって、神の救いのわざを感謝し、そして主の食卓からキリストの体をいただいて、皆がキリストにおいて一つに結ばれます。わたしたちが実際に集まることが大切なのはこのためです。神への義務という次元もありますが、もっと身近に、信者同士がお互いを必要としており、ともに集まって励まし合い、支え合わなければなりません。こうして信仰の絆が確認され、連帯の意識が深められるなかで、ともにキリストの体に結ばれて、社会での生活に送り出されるのです。
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洗礼 Baptism
洗礼によってわたしたちはキリストに結ばれて神の民に加わり、またすべての罪をゆるされ、水と聖霊によって新しく生まれます。こうしてわたしたちは神の子と呼ばれ、事実神の子となるのです(1ヨハネ3·1、ロマ8·15)。
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子どもの教育 Child education
日本の社会にはキリスト教の文化的な環境が十分に整っていません。ですから、子どもがキリスト者として成長するためには、親自身が喜びをもって信仰に生きていること、教会共同体への参加が大切です。
ミサに参加し、教会学校に通い、家庭でともに祈ることがキリスト教的な環境と信仰教育を与えていくことの基本となります。
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家庭での祈り Prayer at home
家庭での祈りも大切です。幼児のときから、寝る前の祈りや食卓での祈りを大切にしてください。いつもわたしたちの側にイエスがおられることを思い起こしてください。
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結婚 Marriage
結婚は自由意思による男女の合意と誓約によって成り立ち、愛と忠実に根ざした不解消の絆で、神が結んでくださる厳粛なものです。結婚ほ神聖であり、その生活は子どもの誕生と育成の場として、社会の中で独自の使命を持っています。結婚式は単なる装飾や形式ではなく、神と人びとの前で2人の決意を表明し、お互いに絆を結び、恵みと祝福を求める祈りです。
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堅信 Firmness
堅信によってわたしたちは父のたまものである聖霊をのしるしを受け、主にいっそう似る者となり、聖霊に満たされます。こうしてわたしたちは洗礼のとき宣言した信仰に生き、世にあってことばと行いでキリストのあかしとなり、キリストの体の完成のために働きます。
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死の準備 Preparation for death
病気や事故などで死の危険が迫っているときには所属している教会、もしくは近くの教会の司祭に連絡してください。ご聖体、病者の塗油、ゆるしの秘跡、相談などを依頼できます。
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十字架
Orthodox Hymn (Troparion) of Holy Cross
主や、爾の民を救い、爾の業に福を降し、吾が國に幸いを與へ、爾の十字架にて爾の住所を守り給え。
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なぜ一部の人にだけ真理が啓示されるのでしょうか
+セラフィム·ローズ(1934-1982、アメリカの修道司祭)
Why is the truth revealed only to some people?
Fr. Seraphim Rose, USA (+1982)
なぜ一部の人にだけ真理が啓示されるのでしょうか。神からの啓示を受け入れるための特別な器官があるからでしょうか。
実はそうなのですが、普段は開かないようになっています。
その神からの知恵を受け取れる器官の名は、「愛に満ちた心」です。
+セラフィム·ローズ(1934-1982、アメリカの修道司祭)
https://twitter.com/Nicholas199903
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正教会とは
What is the Orthodox Church?
まず初めにお断りしておかなければならないことは、ここにこれから書いてあることは、あくまで正教会についてのほんのわずかな概論である、ということです。正教の奥深さについての「ご招待」であって、学問的な「解説」ではありません。より詳しく正教について知りたい方は、ぜひお近くの正教会を探してそちらを実際に訪ねてみてください。
およそ2000年前、一人の男の子がユダヤの地、ベツレヘムという小さな町で生まれました。彼はイイスス(イエス)と名づけられます。イイススは神の国の到来を人々に教え、多くの病人を癒し、様々な奇跡を行いました。しかし彼の活動に当時のユダヤ教の指導者達は危機感を覚え、イイススは十字架に磔にされ殺されてしまいました。しかし、イイススは三日目に墓からよみがえり、彼の弟子たちのもとに現れました。そして40日を彼らとともに過ごしたのち、イイススは天に上がっていきました。
このイイススを「人となった神の子」と信じ、彼こそが救世主「ハリストス(キリスト)」であると救いの希望を持つのがキリスト教です。その中でも私たち正教会はイイススの直弟子である使徒以来、イイススと使徒たちの伝統を正しく守り伝えていると確信している教会です。
キリスト教は、イイススの昇天の直後から、使徒たちによって世界中に宣教されました。紀元1世紀の世界にあって、西はスペインから東はインドに至るまでハリストスの教えは伝えられたのです。キリスト教の最初の三世紀は帝国による迫害の時代でした。多くのキリスト者がその信仰を守るために致命(殉教)し、それによって教会はますます強められていきました。やがてローマ帝国もキリスト教の存在を認め、後にはキリスト教がローマの国教となったのです。
しかし不幸なことですが、キリスト教は次第にギリシャ語を話すローマ帝国東方の教会と、ラテン語を話す西方の教会に分裂していきました。これにはいくつもの理由が複雑に絡み合っており、簡単に説明することは困難です。西方教会は「聖神(聖霊)」に関して、独自の理解を教義に盛り込みました(フィリオクェ論争)。さらに教会の権力をローマ総主教、すなわち教皇に集約することで強力な教会組織を作り上げ、今日「ローマカトリック」と呼ばれる教会が誕生しました。一方で従来の教義を変えることなく守り、教皇権が東方に及ぶことを否定した教会は、「正教会」と呼ばれて今日に至ります。(ただし、これは西方教会離脱の全体像ではありませんし、教会の東西分裂があるとき突然、決定的な事件によって起こったわけではないことに留意せねばなりません)
教会から西方の領域が分断されてしまったことは不幸な歴史ですが、その時代に新しく正教の光が届いた地域もあります。それは今日ロシアやウクライナと呼ばれるスラブ人たちの住む地域でした。「ルーシ」と呼ばれる人々が正教会を受容したのは、今からおよそ1000年ほど前になります。それ以来ルーシの地、すなわちロシアは正教会の一大拠点となり、そこでは正教の精神性や文化が大きく花開きました。
正教会は自らをニケア·コンスタンティノープル信経(信条)で告白するところの「一つの聖なる公なる使徒の教会」である、と自認しています。「公」である、ということは「正教会がただの民族宗教、国家の教会なのではなく、その正しさは世界中に普遍的に通用し、宣教されるべき教会である」ということを意味しています。今日「正教会」というとロシアやギリシャ、あるいはルーマニアやブルガリアなどの東欧諸国のイメージが強いですけれども、本来はそこに止まらず、世界中に遍くあるべき「たった一つの聖なる教会」なのです。
また、私たちは教会を教会たらしめている聖なる伝統は、イイススから使徒たちへ、使徒たちからその後継者である主教たちへ受け継がれ、今日の正教の教会の中に息づいていると信じています。聖なる伝統とは、聖書、公会議の決定事項、教義、奉神礼(礼拝)の方法、聖職者の位階、聖堂、イコン、などのものです。正教会は信仰上の父祖から受け継いだものを、そのまま間違いなく次の世代に渡す、という形で伝統を守り、そこには聖神(聖霊)の働きがある、と信じています。
「正教」はギリシャ語で「オルトドクサ」、英語では「オーソドックス(Orthodox)」と呼ばれています。これは「正しい(オルソス)」「祈り(ドクサ)」を意味する言葉であり、正教会の特徴をはっきりと表しています。私たちは祈りをとても大切にします。神と人との愛ある交わりは祈りの中にこそあると信じているからです。私たちは神への愛、神への感謝、神への願いを祈りの形で表現します。正教会は使徒の時代以来、この祈りの本質を連綿と引き継いできました。だからこそ私たちは「オーソドックス」を名乗るのです。
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/orthodox
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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正教会は何を信じているか
What Orthodox Church believe?
正教会に限らず、キリスト教はこの世界は神によって創造された、と信じています。では神はなぜ世界を造ったのか。私たちは神を愛の方である、と信じています。ですから神はこの世界を「神が愛するもの」として創造された、ということになります。神は見える世界(物質的世界)、見えない世界(非物質的世界)を創造し、そこを造物で満たしました。それは「はなはだ善い」ものであると神が言った、と聖書は伝えています。世界は大変に素晴らしいもので、その素晴らしい世界の代表として、世界を愛し、よく守り、神に感謝を捧げ、神との愛の交わりのうちに生きる存在として人間が造られた、と正教会は教えています。神に「よく似たもの(神の像)」として神の持つ良き能力(愛、創造性、知恵、自由な意志など)を与えられた人間は、その能力を用いて神と世界の仲立ちとなることを期待されていました。さらに、人間には「神との交わりの中にどこまでも神に似ていくことができる可能性(神の肖)」まで与えられていました。
しかし人間はその役割に失敗してしまいます。アダムとエヴァは蛇の誘惑に負け「善悪の知識の実」を食べてしまいます。その時に蛇は「これを食べると神のようになれる」と言って彼らをそそのかしました。それは、人間が神に代わってこの世界の支配者となればよい、という誘惑に他なりません。神とともにあってこの世界を生かしていくはずの人間が、神に背を向けこの世界の暴君として振舞う道を選んだのです。人間の傲慢さは次々と新しい罪を生み出し、この「はなはだ善い」はずの世界を汚染していきます。そして、神から離れた人間は、神の永遠性という恵みを失ってしまったので「塵に帰るもの」すなわち死ぬものとなった、と教会は教えます。
その人間と世界を罪と死から救うためにこの世に来られたのが「神、子」、あるいは「神の言」と呼ばれる方でした。このお方は「神、父」とまったく同じように「神である」と教会は信仰を告白します。全ての時間の外側で、つまり永遠において「父から生まれた神の子」です。このお方が処女であるマリヤを通してこの世界に入り、イイスス(イエス)と名付けられました。イイススは完全な神でありながら、完全な人間です。私たちが人間であるのとまったく同じように、一人の人間としてこの世にお生まれになったのです。イイススが「どのように」「どのような様式で」完全な神であって完全な人であるのかについて、正教会は多くを語りません。人間の論理的知性では分からないからです。神の神秘の領域のことには沈黙を守るという、知的な事柄に対しての姿勢が正教会にはあります。私たち正教はイイススの神性と人間性については「この二つの本性が混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、離されることがない」ということ、そしてイイススは完全に一つのお方(位格)であることを確認するのみです(カルケドン第四全地公会)。
むしろ、神が人となったことの意味でもっと重要なのは、「神が人となることで人間性全体が浄められた」ということです。このことは「神が人となったのは、人が神となるためである」という聖大アタナシオスの言葉で私たちに伝えられています。神ご自身が人間となって、人間の失敗を再びやり直してくださったので、人間本性全体がその本来あるべき姿を回復できるようになりました。正教会には「テオシス(神成、神化)」という考え方がありますが、これは私たち人間が神との交わりの中に、限りなく神に似たものとなっていくということです。私たちは神の似姿として創造され、さらに神に似ていく可能性を与えられていました。私たちは罪によってこれらを大きく傷つけてしまいましたが、イイスス·ハリストスによって浄められた人間性は再びこの可能性を取り戻しました。聖使徒パウェルはこの「神化」についてこのような言葉で表現しています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。(第二コリント3:18)」。あるいは偉大な聖師父であるマキシモスは「神化」を、鉄(人間性)が炎(神のエネルギー)に熱せられ、炎の性質を持った鉄(神化された人間)になることに例えました。この「テオシス」は正教徒の究極的な目標である、ということができるでしょう。
また、私たちは「神、聖神(聖霊)」を信じています。聖神は私たちに神の子ハリストスを指し示し、私たちをハリストスとの合一に導きます。また聖神は「神、父から出る」お方であり、「父」と「子」とともに「至聖三者」、三位一体の神であると正教会は信仰を告白します。三位一体とは、神とは「父」と「子」と「聖神」という三者であるが、しかし一つである、ということです。古来からこの私たちが理論的には理解できない命題について説明が幾たびも試みられてきましたが、それはいずれも神の神秘を表現することはできませんでした。これは私たちが理論的に証明することではなく、神からの啓示によって直接「知る」ことです。私たちにとって重要なことは、三位一体の理論的様式ではなく、至聖三者が完全に一致した愛の中にあるお方である、ということです。なぜならば、神の像として造られた私たちには神の性質が反映されているので、神が「完全な愛」のお方であるならば、人間もまた愛の存在であるはずだからです。人が神を愛するものであること、人が人を愛するものであることは、私たちの原型である神に由来することであり、私たち人間にとって本質的な事柄である、と正教会は考えます。
私たち正教会はイイスス·ハリストスの復活について「肉体をもっての復活」を信じています。決して霊だけが人々に現れた、とか、イイススの死が人々に強烈なインスピレーションを与え「復活体験」を感じさせた、という解釈には与しません。私たちが信じるハリストスの復活は、本当の意味での復活、一度間違いなく死にそして復活したイイススが、完全な霊と肉体をもって使徒たちや人々に現れ、実際に食べたり、飲んだり、触れたりした、という復活です。それがいくら私たちの知る「常識」とかけ離れていたとしても、ここに妥協はあり得ません。私たちは使徒たちが目撃し、そして伝えてきたことを信じています。
ハリストスは人間すべての罪の為に十字架にかけられ死んだのみならず、自らの死を以て死に勝利し、私たち人間に永遠の生命を与えました。ハリストスが人間性全体をもって復活したのだから、ハリストスの人間性に連なる私たち人間もまた復活することができるようになりました。もちろんこの世において私たちにはいまだ死が訪れます。私たちの肉体は喪われてしまうように見えます。しかし「復活の日」、私たちは復活し、栄光に輝く新しい肉体を得て永遠の生命に入れらる、と教会は教えています。これが正教会の持つ「希望」なのです。
そしてイイスス·ハリストスは私たちが主の復活に与り、ともに永遠のものとなるために一つの道筋を用意してくださいました。それは「洗礼を受け、主の体と血である聖体を領食する」という方法です。これは私たちを罪と死から救い出し、永遠の命を与える、新しい神と人との約束です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。(ヨハネ6:54)」という主の言葉を信じているからです。聖体を受けることで私たちはハリストスの体と一体になり、教会は「ハリストスを頭とした肢体」となります。聖体を受ける者はハリストスに連なり、ハリストスとともにあって永遠の生命を受けます。ですから正教徒は毎週日曜日に、聖体礼儀を行い、神に感謝を捧げ、その恵みの賜物を受け取るために教会に集うのです。
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/orthodox
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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ORTHODOXY:
神様の平安が皆さんとともにありますように
May God's peace be with you
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神に感謝
Thanks to God
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主のご復活、おめでとうございます!
Congratulations on the resurrection of the Lord!
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盛岡管轄区の教会
https://www.ocjmorioka.com/churchs
Orthodox Christian churches in Japan
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実に復活!
おめでとうございます!
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教会へのご招待
Invitation to Church
ここまで、長く書きましたが、正教会についてこの場ですべてを語り、解き明かすことはできません。また、「読む」ということだけで正教会の真の理解に至ることは絶対に不可能です。また私たち正教徒自身も、正教全体を理解し、真理を完全に知っているわけではありません。それほどまでに正教会は奥深く、神秘の側面を多く残しています。ですから、もし正教に関心がある、キリスト教に興味がある、という方はぜひ実際に教会に足を運んでみてください。もし可能であるならば、それは私たちが祈祷を行っている時がなお良いでしょう。正教会の神髄は奉神礼(礼拝)を行っている時にこそあります。そこで何が起こっているのか、どのように祈りが行われているのか、ぜひ五感をもって確かめてください。本を読むだけの勉強では得られない体験がそこにはあるはずだからです。
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/orthodox
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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あなたは死を超えた愛の力で
You are the power of love beyond death
イエス·キリスト
あなたは死を超えた愛の力で
わたしたちに本当の自由を与えて下さいました
この一年、この心にみなぎる愛と福音を
どんな困難も恐れずに
生きていくことができますように
主のご復活おめでとうございます!
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正教会の信徒は、教会や家庭祭壇のイコンの前にろうそくを灯します
Orthodox believers light candles in front of icons in churches and home altars
正教会の信徒は、教会や家庭祭壇のイコンの前にろうそくを灯します。
これにはいくつかの理由があります。
まず、ろうそくの光は、私たちの霊を照らす「世の光(ヨハネ8:12)」であるハリストス(キリスト)を象徴していて、その光=イイスス(イエス)を信仰していることを表すためです。
また、ろうそくの光を見て「爾等の光は人々の前に照るべし。彼等が爾等の善き行いを見て、天に在す爾等の父を讃栄せんためなり(マタイ5:16)」というイイススの言葉を思い出すためでもあります。
聖人のイコンに限定すると、そのイコンに描かれた聖人が受けた神からの「光」、そしてその聖人の尊敬すべき聖なる生涯から発される「光」を記憶し、彼等の信仰や生き方を学ぶためろうそくを灯す、という意味もあります。
また、私たち人のためにご自身を捧げたハリストスの受難や聖人たちの犠牲に感謝し、それに対する敬意を示すためにろうそくを捧げるという意味もあります。
最後に、ろうそくは身を減らして人を、そしてイコンを照らしますが、ろうそくを灯す私たちも、そのような自分自身だけでなく、人のために、世のために、そして神のために尽くす生き方ができることを願う、という意味もあります。
https://twitter.com/Nicholas199903
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山下りん
Rin Yamashita, Japan (1857-1939)
山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日(1857年6月16日) – 1939年(昭和14年)1月26日)は、日本の画家である。日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。そのためしばしばイリナ山下りんとも言及される。
略歴
常陸国笠間藩(茨城県笠間市)の出身。1873年(明治6年)に江戸に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ·フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。
同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。
帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン製作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北·北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア·イコンを通じて山下りんがギュスターヴ·ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。
イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後は、留学経験を誇る風もなく、機関紙である『正教時報』に留学体験を書くこともなく、肖像写真にも土産にもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で、浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある。
ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年(大正7年)、61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。
1901年(明治34年)44歳で制作、個人所有のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に『美の巨人たち』でとりあげられた。
留学先
りんの留学した修道院は、長らく名称、所在地が不明であったが、1979年、川又一英が、当時のレニングラード(サンクトペテルブルク)を訪問し、突き止めている。これは、市の中心から南へ5km、ザバルスカン大通り(現モスコフスキー通り)に面した、正式名称サンクトペテルブルク復活女子大聖堂、通称ノヴォデーヴィチ女子修道院である。エルミタージュ美術館へ行程8kmほどで、一時期、りんは馬車で通っていた。その後、ロシア革命、第二次大戦を経て荒廃していたが、ソ連崩壊後、徐々に再建されている。
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日本の正教会
Orthodox Church in Japan
私たち日本の正教会はロシアから伝えられました。1861年、幕末の蝦夷地にニコライ·カサートキンという一人の若い修道司祭が上陸しました。彼はまだキリスト教が禁止されていた日本で、日本語や日本文化を学び、来るべき宣教開始の日を待ちました。やがて明治に時代が変わり、彼は日本での宣教活動を始めます。その時に最初の拠点となったのが、北海道函館の教会でした。今日、観光地としても親しまれている「函館ハリストス正教会」です。ニコライは宣教の中心は日本の首都であるべきであると考え、東京の神田駿河台の地に土地を購入し大聖堂を建立します。これが現在の「東京復活大聖堂」、通称「ニコライ堂」です。ニコライは精力的に日本全国を宣教して最盛期には3万人近い信徒が日本全国にいたと言われています。
ここ盛岡の地にも明治初期に正教が伝えられ、最初は加賀野に聖堂が設けられました。最初の聖堂は武家屋敷を買い取ったものであったと言われています。1961年(昭和36年)に現在の高松に移転され、現在の聖堂が建設されました。高松の池のほとりに位置する丘の中腹に建つ聖堂は、下を走る国道4号線のバイパスからもよく見え、良い景観を作っています。また教会のある丘からは盛岡市を一望でき、天気のいい日には岩手山も正面に見えるという絶好のパノラマを備えています。
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/orthodox
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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聖書はまるで、辛い時、苦悩の時、頭をそこに委ねる母の胸です
聖書はまるで、辛い時、苦悩の時、頭をそこに委ねる母の胸です。
+新致命者聖アレクサンドラ(ニコライ2世の皇后)
https://twitter.com/Nicholas199903
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福音を「書き」続けている
Continue to "write" the Gospel
「わたしたちは、このことの証人です」
聖書の信憑性を示すひとつの要素は
弟子たちが一貫して
自分たちのふがいなさしか書いていないことだ
もし弟子たちが後世の人々を騙そうとして
福音書を書き残したなら
自分達のいいところばかり書いていただろう
わたしたちも
福音を「書き」続けている
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奉神礼について
About Liturgy
奉神礼とは「礼拝」や「典礼」を表す正教会の言葉です。
正教徒にとって奉神礼こそが、キリスト教徒としての生活の中心であり、もっとも重要なものです。
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/liturgy
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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子どものように無邪気に喜ぶだろうか
Will you be innocently pleased like a child?
もしイエスがわたしの足を洗おうとしたら
どう感じるんだろう
子どものように無邪気に喜ぶだろうか
それとも
年を重ねるごとに複雑になってゆくこころの
ひだにたまる汚れに触れられるような
いたましさを感じるのだろうか
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聖体礼儀について
About the Divine Liturgy
正教徒にとって、正教徒であることの意味のすべては、この聖体礼儀にあると言っても過言ではないでしょう。聖体礼儀とはイイスス·ハリストス(イエス·キリスト)の体と血となったパンとぶどう酒を領食する奉神礼であり、ローマカトリック教会の「ミサ」、プロテスタント教会の「聖餐式」に相当する祈祷です。私たちは日曜日ごとに教会に集い、祈り、感謝してパンとぶどう酒を神に捧げます。そのパンとぶどう酒は「聖体」すなわちハリストスの体と血となって私たちに与え返され、それを領食する私たちはすべての罪が許されて永遠の命に至ることができる、と私たち正教徒は信じています。この聖体を人々に分かち与えることこそが、教会の役割であり本質です。イイススは機密制定の晩餐(最後の晩餐)の席において、使徒たちにパンを割きぶどう酒を与え、それが自分の体血であること、それが人々の罪の赦しとなると宣言し、そしてこれからも同じように行うように命じました(ルカ22:17-20、コリント11:23:25)。聖体は私たちを生かし、神の国へと導くイイスス·ハリストスそのものです。だからこそ私たちは2000年にわたって聖体礼儀を守り続けてきたのです。
わたしは天から下ってきた生きたパンである。
それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。
わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。
イオアン(ヨハネ)6:51
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/liturgy
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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教会の中には何かが育ちつつある
Something is growing in the Church
教会の中には何かが育ちつつある
この困難には意味があると思わせてくれる
励まされるようなインタビューでした
より主体的な信仰と行動的な参加への成長
ゆらぐいまをあたりまえの日常として
ゆるぎないものに基づいていく
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洗礼について
About Baptism
聖体礼儀を行い、聖体をすべての人に与えることが教会の役割である、とはいえすべての人が聖体をいただけるわけではありません。聖体を受けるためには正教の洗礼を受けた人間であることが求められます。信仰の無い者、信仰を異にする者が聖体を受けても利益にならず、かえって害になってしまうと教会は考えるからです。聖使徒パウェル(パウロ)はコリント人への手紙の中で「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである(11:29)」と語っています。聖体を受けて神の国と永遠の生命を得ることを求める者は誰でもまず洗礼を受けてそれに備えなければなりません。
洗礼とは至聖三者、すなわち三位一体の神である「父と子と聖神の名」において三度水に沈み(日本では頭から水をかける方法が多いですが、これも有効な洗礼です)、主の十字架上の死と三日目の復活にあずかる奉神礼です。洗礼は人生において、たった一度だけ行われます。洗礼の水に沈むことによって、私たちは罪と死に支配された歪んだ人間性とともに死に、ハリストスが復活したように、全く新しいものとして生まれ変わります。私たちはそのことを「ハリストスを着る」という言葉で表現します。
洗礼が終わると直ちに聖神(聖霊)の印である聖膏(特別な香油)が体の各所に塗られ、聖神の賜物が神から与えられます。洗礼を受け聖神の印をつけられたものは、聖神によって生かされる「神の宮」となります。
福音を伝え、洗礼を施すこともまた主イイスス·ハリストスの命令です(マタ28:19)。一人でも多くの人が神の国へ至る道を歩めるようにハリストスを述べ伝えること、これもまた教会の本質的な役割です。洗礼を受けるのに、人種、性別、身分、年齢、あらゆる障壁はありません。ただ切に神と神の救いを求める心がある限りすべての人に洗礼は開かれています。正教徒として生きることに興味や関心がある方は、ぜひ教会の門を叩いてみてください。
よくよくあなたに言っておく。
だれでも、水と神(しん·霊)とから生れなければ、
神の国に入ることはできない。
イオアン(ヨハネ)3:5
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/liturgy
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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たましいを燃やすあの愛を
道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか
復活したイエス
復活祭の大騒ぎのあとで
簡単に忘れてしまうわたしたちの心に
語って下さい
心でしか理解できないあのできごとを
たましいを燃やすあの愛を
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4月26日はロシア正教会で「チェルノブイリの救い主」を記念します
April 26th will commemorate the "Savior of Chernobyl" at the Russian Orthodox Church
東方教会では社会問題のためにも記念を定め、イコンを描くそうです。
4月26日はロシア正教会で「チェルノブイリの救い主」を記念します。
放射能で病を負いおびえた子どもを集めるキリストは、人類を愛のうちに集めようとする神の思い、そして人間の被造物への責任を思いかえすようにうながしています
https://twitter.com/Nicholas199903
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神よ、私は確信しています
God, I'm sure
神よ、私は確信しています
あなたのいつくしみにより頼むものには
なにも欠けるものはないと
すべての思い煩いは
あなたが引き受けて下さいますから
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聖枝祭、おめでとうございます!
Happy Palm Sunday!
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今日は聖大火曜日
Holy Tuesday
今日は聖大火曜日、読まれる福音の箇所はマトフェイ(マタイ)24:36-26:2です。
ここでイイススは、世の終わりがいつなのかを計らないように、その時まで覚醒しているように呼びかけ、「忠実な僕と悪い僕」、「十人の乙女」の例え話を語ります。
花婿が来るその時までは、油を溜めておきたいものです。
* * *
視よ、新郎は夜半に来る。僕の醒むるを見ば、僕は福なり。その倦むを見ば、當らざる者なり。我が霊よ、慎みて眠り惰るなかれ、恐らくは死にわたされて、国の外に閉されん。疾く興きて呼べ、聖、聖、聖なるかな神よ、生神女によりて我らを憐れみたまえ。
今日歌われるトロパリです
https://twitter.com/Nicholas199903
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今日は聖大水曜日
Holy Wednesday
今日は聖大水曜日、朗読される福音の箇所はマトフェイ(マタイ)26:6-16です。
ここでイイススは、香油を注いだ女性を褒め、弟子たちに自分の死と福音宣教を予言します。
そして、弟子の一人であるイウダは、祭司長たちに銀貨30枚でイイススを渡す約束をしていたという話で、朗読箇所は終わります。
https://twitter.com/Nicholas199903
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聖木曜日
Great and Holy Thursday
今日は聖大木曜日、機密の晩餐(最後の晩餐)やイイススが弟子たちの足を洗った出来事が記憶される日です。
また、今日の夕方に捧げられる聖大金曜日の早課(早い朝の祈り)では、『十二福音』と呼ばれる祈りがあります。福音書の受難の箇所を12に分け、早課の祈祷文と合わせて朗読する祈りです。
十二福音は主の告別説教(イオアン/ヨハネ13:31)から始まります。
1から12までの福音の箇所が読まれるたびに鐘を鳴らし、「主よ、光栄は爾の苦しみに帰す」と歌います。
この祈り、すごく好きなのですが、今年は参祷制限が厳しいため、家で韓国正教会の配信を見て、お祈りを捧げたいと思います。
* * *
今日は聖大月曜日、読まれる福音の箇所はマトフェイ(マタイ)24:3-35です。
世の終末が来る前、どのような事が起きるかについてのイイススの予言が書かれている箇所ですね。
終末の時がいつになるのかは分かりませんが、その時になって「こうすれば良かった」と後悔しないように生きたいと思います。
https://twitter.com/Nicholas199903
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今日は聖大金曜日
Good Friday
今日は聖大金曜日。
イウデヤを解放する王として、民衆の歓迎を受けながらエルサレムに入った、ナザレト出身のイイススという男は、「これを去れ、これを去れ、十字架に釘せよ!」という民衆たちの罵倒が鳴り響く中、十字架にかけられ、孤独の中で息耐えました。
主よ、光栄は爾の苦しみに帰す。
https://twitter.com/Nicholas199903
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今日は聖大土曜日
Holy Saturday
今日は聖大土曜日。
イイススは眠られ、墓に葬られました。
私たちは主の墓の前に立ち、嘆き、悲しみます。
しかし、ただ悲しむだけではありません。
主ご自身が予言したように、死より復活し、また私たちとともにいてくださるという希望を抱き、喜びの時まで、主の苦しみに感謝し、悲しむのです。
https://twitter.com/Nicholas199903
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イエスが「マリア」と言われると
When Jesus says "Maria"
イエスが「マリア」と言われると、
彼女は振り向いてヘブライ語で
「ラボニ」と言った
だいせつなときにイエスに呼ばれたら
その声が主のものだと聞き分けられるほど
わたしは、わたしの日々の生活は
彼の声に慣れ親しんでいるだろうか
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イコン「悪しき心の浄化」
Icon of Most Holy Virgin Mary
"Purification of the evil heart"
イコン「悪しき心の浄化」
正教会のイコン、特に生神女マリア様のイコンには、あだ名が付くことが多く、各イコンごとに興味深い伝承や歴史的事件·人物と関わったエピソードがあって、調べていくとかなり面白いです。
https://twitter.com/Nicholas199903
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ユダはパン切れを受け取ると
When Judas receives a piece of bread
ユダはパン切れを受け取ると
すぐ出て行った
夜であった
闇の中に消えていったユダをまなざしで追う
イエスの思いがこころに刺さる
いくどとなく
こうして闇にむかって彷徨ったとき
遠くにその瞳があったのだ
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死者の祈り(パニヒダ)について
About the prayer of the dead
私たち正教徒はしばしば死者のための祈りを行います。すでに永眠してしまった私たちの友や家族が神の国に入れられるように祈るのです。正教会は人間の救いについて、自分の努力や功徳の積み重ねの結果で神の国に入ることができる、とは考えません。人間は誰もが罪を犯します。まったく潔白で神の国にふさわしい人間は、人となった神、イイスス·ハリストス以外には存在しないのです。ですから、もし私たちが純粋に善行と悪行をもって審判されるのであれば、すべての人が有罪となり地獄へ行くことになってしまうでしょう。しかし神は人間を功罪で審判する方ではありません。もちろんすべての人間の功罪をご存じです。しかし神にとって何より大切なのは、神が人を愛しているということです。神は人を愛しているので、人となり、私たちのために神の国、永遠の生命に至る道筋を示してくださいました。それは神の愛の呼びかけに応え、洗礼を受け、聖体をいただくという道です。人間に求められているのは「神の愛、神の招きに応えること」だけなのです。
しかしこれは生きている人間にしかできないことでもあります。死んでしまった人は自らの口で祈ることも、聖体を受けることもできません。だから私たちは死者のために祈ります。もはや言葉も息もない、愛する友や家族に代わって神に祈ります。おそらく友や家族たちにも罪があるでしょう。しかしそれに目をつむって、どうか神の国に入れてあげてほしい。これが私たちにとっての死者のための祈りです。私たちは神が人を愛しているのを知っているので、この祈りが聞き届けられることも知っています。そして最後の審判の日、私たちはともに復活し、全く新しいものとして再会の喜びを分かち合い、永遠の幸福に入れられる、ということに希望を置いているのです。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである
イオアン(ヨハネ)の黙示録21:4
ソース:
https://www.ocjmorioka.com
https://www.ocjmorioka.com/liturgy
盛岡ハリストス正教会
Morioka Orthodox Church
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盛岡管轄区の教会
盛岡ハリストス正教会
聖十字架挙栄聖堂
名勝「高松の池」近くの丘に建つ教会。鐘楼とドームは下を走る国道4号線からもよく見える。イコノスタスのイコンは明治の日本人イコン画家イリナ山下りんの手によるもの。
住所 020-0114岩手県盛岡市高松1丁目2-14
電話 019-663-1218
盛岡管轄区の教会:
https://www.ocjmorioka.com/churchs
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盛岡管轄区の教会
北鹿ハリストス正教会
曲田生神女福音会堂
秋田県内唯一の正教会の会堂。明治25年に建設された木造会堂だが、今でも現役で祈祷が行われている。木材を湾曲させて作った中央のドームが大変に美しい。イリナ山下りんのイコンも多数用いられている。秋田県と大館市の重要文化財。
住所 018-5603秋田県大館市曲田80-1
web http://www.wp-honest.com/magata/
盛岡管轄区の教会:
https://www.ocjmorioka.com/churchs
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盛岡管轄区の教会
山田ハリストス正教会
主の復活会堂
三陸海岸の漁港の町、山田に建つ教会。旧会堂は東日本大震災後の津波、及び大火災により焼失してしまった。しかし信徒達の懸命な努力により、2018年新会堂を新築、成聖。主の復活を記憶し「復活会堂」と名付けられた。
住所 028-1341岩手県下閉伊郡山田町八幡町4-28
盛岡管轄区の教会:
https://www.ocjmorioka.com/churchs
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盛岡管轄区の教会
遠野ハリストス正教会
聖太祖アウラアム·サッラ会堂
遠野の農村地帯に建つ教会。畑の中のなだらかな丘の上に位置しており、田園風景によく映えている。もともと遠野の地には会堂は無かったのだが、地元信徒の努力により2013年に建立成聖となった。遠野地区の最初の正教信者の聖名がアウラアムとサッラであったことにちなみ、聖なる神の祖先アウラアムとサッラの名を会堂名とした。
住所 028-0555岩手県遠野市土淵町土淵10地割31-1
盛岡管轄区の教会:
https://www.ocjmorioka.com/churchs
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盛岡管轄区の教会
岩谷堂ハリストス正教会
主の降誕会堂
岩手県の南部に位置する奥州市、江刺地区に建つ教会。
会堂内のイコノスタスは、かつて中国遼東半島の旅順市にあった聖堂から運ばれてきたと伝えられているが、真相は不明。
住所 023-1121岩手県奥州市江刺区男石1-4-3
盛岡管轄区の教会:
https://www.ocjmorioka.com/churchs
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かれに続け
Follow Him
わたしたちへの愛でこころが壊れそうになりながら
小ろばにのったこの救い主が
わたしたちの神
かれに続け
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感謝致します
Thank You
何だか、涙が出そうになりました。どうもありがとうございます。感謝致します。
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アーメン!
Amen!
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