キリストはほんとうに生き返ったんですか
Was Jesus Really Resurrected?
ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。
ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
Q&A
I tell myself to my every day, “Let’s start praying from tomorrow and am going to change myself.” But everything is as it is
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、私は毎日自分に言い聞かせております、「さあ、明日から祈りを始めて自分を改めよう」。でも何もかもが今までのままです。
――神の前に立ち、こう言うことじゃ。「神のお力によって私は務め改めます」とな。そうしたら神はお助けくださるよ。お前さんが自分を改めたいと思うのは、つまり、助けを得るということと同じじゃ。神に助けを求める――すると神はお前さんに手をさしのべてくださるじゃろう。お前さんは、自分に出来るほんのわずかなことをする、そうやって前に進んで行く。赤ん坊が自分の手で大きな石を動かそうとしているのを見たら、誰でも飛んで行って助けてやるじゃろう、そう思わんかの?神も同じで、お前さんの小さな努力をご覧になれば、勝利する事が出来るよう助けてくださるのじゃよ。
自分を改めようと何の努力もしないで「わがハリストスよ、私の中にこのような欠点があります。あなたはそれを取りのけることがお出来になるでしょう。どうぞ私を逃れさせてください」と言う人間がおるが、神がどうやって助けることが出来るじゃろう?神が助けるには、まず人が努力する必要があるのじゃよ。神が助けてくださるためには、人が自分でしなければならないいくつかの事柄があってな。自分を助けたいと望んでもいない者が、助けを受けることなどありはせんのじゃよ。
わしらは、時には不思議な方法で神の恵みと贈り物とを受けることがある。戦いもしないで何がしかの徳を得ることが出来て、聖人になれるかもしれんなどとさえ思いがちじゃ。しかし、神が何かをお与えになるには、わしらは努力しなければいかん。それなしにどうやって神が何かを与えることが出来るかの?トロパリで歌われているではないか、「不毛の荒野を耕せり」と。神が雨を賜い、土を柔らかくする。けれどもわしらは自分の畑を「耕さなければ」ならんのじゃよ。土地の準備が出来ても、鍬を入れて種をまかなければ何にもならん。種をまいたぶんだけ刈り取ることが出来る。耕さなければどうして種をまくことが出来るかの?もし種をまかなければ、どうして刈り取ることが出来る?それだから、神が何をお出来になるかと尋ねるのではなく、自分が何を出来るのか、それを自分に問わねばならん。ハリストスという名の銀行は、そりゃあ利息が高いのじゃよ。だがこの銀行にわしらが口座を持たなかったら、どうやってそこから金を受け取ることが出来るじゃろう?
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「生まれ変わり」はあるんですか
Is there a “reincarnation”
人間が死んで次の世では犬や猫に生まれ変わるというのは、仏教の輪廻の考え方です。キリスト教にはそういう考え方はありません。死後、人はしばらく眠りにつきます(永眠)が、やがて、ハリストスがこの世に再びやってくるとき、新しい体を与えられて復活し、生前の生き方に応じて裁かれます。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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正教会: 開祖は誰ですか – いつ頃から始まったのですか – どこで始まったのですか
Questions about Eastern Orthodox Church
もしキリスト教が、誰かが「あたま」で考え出した「教え」をもとにした宗教なら、その誰かが「開祖」ということになりますが、キリスト教はそういうものではありません。旧約聖書に伝えられているように、神さまと人とは長い交わりの歴史を持ちます。それは、人間は本来とてもステキなものとして神さまに創造されたのに、神さまに背いたために、そのせっかくのステキさを失ってしまい、惨めな姿でこの世をさまよう歴史、そしてその人間に対する、神さまの愛による怒りや悲しみや赦しの歴史です。
そんな歴史の中で、人間は、神さまの愛に応えようと、神さまの怒りをなだめようと、神さまに赦していただこうと、神さまに礼拝する(祈る)ことを始めました。キリスト教はその時にすでに始まっていたと言ってもいいのです。
ただ、神さまと人間との関係は、イイスス·ハリストス(イエス·キリストの日本正教会での呼び方。日本のキリスト教の教派の採用する呼び方の中で、いちばんもともとのギリシャ語の発音に近いんですよ)が、今日のイスラエルのベツレヘムという町に生まれた時に大きく変わりました。イイススは成長し、三十歳の頃、人々に教えを宣べはじめました。不思議な力でたくさんの病人たちを癒しました。そのころユダヤの地を支配していたローマ帝国の圧制に苦しんでいた民衆は、イイススを「救い主」として歓迎しました。やがてユダヤの宗教的指導者たちは、ますます人気が高くなるイイススによって、自分たちの権威が失われてしまうことを恐れ、ついに、イイススを捕らえ、十字架にかけて殺してしまいました。
埋葬されて三日目に、女のお弟子さんたちがお墓に行くと、そこは空っぽで、天使が「主はよみがえった」と告げました。やがて、お弟子たちの所に復活したイイススが現れました。その時、お弟子さんたちは、イイススが「神の子」、真の「救い主」(ハリストス)であることを、心の底から確信したのです。
イイススは四十日間お弟子さんたちとともに生活を共にし、ついに天使たちにともなわれて、父なる神のもとに昇りました(「昇天」)。しかし、イイススは、お弟子さんたちにあらかじめ約束していたとおり、聖神(「聖霊」の日本正教会訳)を天の父なる神のもとから、地上にお遣わしになりました。この聖神を受けて、お弟子さんたちの内に、どんな困難にも負けない力と知恵と愛があふれました。そしてお弟子さんたちは、「神の子」が、私たち人間のために十字架で死に、なんと三日目に復活したこと、これを信じる者に、罪の赦しと永遠の生命を、言い換えれば「人間のよみがえり」を約束してくださったという「福音」(喜びの知らせ)を、世界中に伝える「使徒」となりました。
その時、今日まで続く「教会」が、ハッキリ目に見えるかたちで存在しはじめたと言っていいでしょう。「教会」はこの使徒の働きを受けついでいます。
この出来事が起きたのは紀元三十年頃といわれています。
キリスト教とは、使徒たちが世界各地に設立した教会が、今日まで宣べ伝え続けている「福音」であり、この福音を信じ「洗礼」を受け教会のメンバーとなった信徒たちが集う「聖体礼儀」(カトリックでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます)という礼拝を中心とした祈りの生活であり、そこで教えられる聖書にもとづく教えであり、その教えによって導かれる「愛」を最も大切なものとする生活のあり方です。
このような教会のあり方をしっかりと守り、多くの人々を教会に集め、いつ起きるか神さまだけしか知らない「ハリストスの再臨」*に備えさせること、これがキリスト教(教会)の目的です。
*ハリストスの再臨 ハリストスが再びこの世に来られ、全ての死者を復活させ、その時生きている人々とともに、生前の生き方に従って一人一人を永遠の生命か、永遠の地獄かに裁きます(最後の審判)。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
Why do I always eat too much?
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、どうして私はいつも食べ過ぎてしまうのでしょう。
――なぜならそこがお前さんの弱点だからじゃよ。悪魔は守りの弱いところをまず攻めるもので、守りの固い場所には近づかないものだからの。悪魔はまたこうも言う。「もしここを攻め落とすことが出来たら、ほかのところも少しずつ奪い取っていこう」とな。だから弱点はしっかり固める必要があるのじゃよ。
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どうやって霊的弱点から逃れるか
私は戦うのがつらいのです
I am afraid to fight
Q&A
Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)
――聖山アトスのパイシイとの対話――
――長老様、私は戦うのがつらいのです。
――指からとげを抜き取るのは痛いものじゃが、自分から欠点を引っ張り出すのはそれよりもっと痛いものじゃよ。覚えておくがいいよ。人が誘惑を切り捨てようと努力している時、誘惑は人の前につまずきの石を置くものだから、人はものすごく苦しむ。それこそ悪魔憑きみたいに苦しむが、それは悪魔と戦っているからなのじゃ。けれどもやがて悪魔憑きは自由になるのじゃ。
自分を浄めるというのは、ボタンを押すように簡単にはいかんものでな。自動的に、何の苦労もなしに得られるものではない。木を切り倒すのと同じで、霊的欠点もすぐには切り捨てることが出来ん。のこぎりで幹を切るのに長いことかかるではないかの。しかもそれでおしまいではないのじゃよ。丸太から家具を作るのに、どれだけ苦労しなければならんことか!まず丸太を切って、板にして、職人が時間をかけて磨いて、それから家具にしていく。
――もし、そのような努力が必要だと私が思わなかったら?
――その時は、切り株のままでいるじゃろう。そしてしまいには火に投げ込まれるじゃろうな。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/アトスの長老パイシイの教え_どうやって霊的弱点から逃れるか.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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天国や地獄はあるんですか
Is there Heaven or hell?
キリスト教でいう天国を、なにか別世界にある特別な場所と考えてはなりません。天国は「神の国」を言い換えたもので、神さまと人間が直接ふれあい、人々が神さまの愛のもとに集う生き方そのものです。その神の国は、教会という形ですでに始まり、たえず成長していますが、完成するのはイイスス·ハリストスの再臨の時です。その時、世界は全く新しい輝きに満ちたものとして造り替えられ、最後の審判で祝福された人たちは「永遠の生命」のあふれる「神の国」へ入れられます。
地獄も同様です。神さまに背き、人を憎んだり、争ったり、ひとりぼっちの世界に閉じこもったりしている生き方そのものが地獄です。生きている間に、そういう自分勝手な、愛を忘れた生活をしてきた人たちは、最後の審判の時、今度は目に見えるかたちで、神さまが示される「永遠の地獄」に入らなければならなくなります。
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なぜみんな十字架を持っているのですか
Why does everyone have a Cross?
目に見えない神の働きを、目に見えるかたちや動作で象徴するものは、教会にはたくさんあります。十字架も神の子「ハリストス」の救いの象徴ですし、十字を胸に手で描くのも、ハリストスへの信仰の象徴です。他にも数え切れないほどの象徴が教会にはあります。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/中学生の質問にお答え.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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教会案内
(各教会の案内は教団ホームページにリンクしています。)
https://www.orthodox-sendai.com/churches
Eastern Orthodox Christian Churches in Japan
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日本での正教伝道は江戸末期1861年
Orthodox missionary work in Japan
日本での正教伝道は江戸末期1861年(文久元年)、函館のロシア領事館付司祭として来日した聖ニコライ(イオアン·デミトリヴィチ·カサートキン)に始まる。初代の信徒は東北出身者が多く、そのため東北北海道の地には正教会が数多く点在している。正教会は、ギリシャ正教、ロシア正教会などとも呼ばれるが、東方正教会の流れをくむキリスト教会である。
ソース:
https://www.orthodox-sendai.com
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
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旧約聖書=イエス·キリスト登場前。 新約聖書=イエス·キリスト登場後
Holy Bible: Old and New Testament
新約聖書=イエス·キリスト登場後
聖書の原典は、旧約聖書がヘブライ語で、新約聖書がギリシャ語で書かれてる。
なので、「英語聖書」とか「日本語聖書」というのは、正確には「各国語に翻訳された聖書」。
ソース:
http://orthodoxchurchinjapan.blogspot.com
日本正教会 ORTHODOX CHURCH IN JAPAN
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正教の霊的勧告集
Orthodox spiritual recommendation collection
謙遜は凡(およそ)の徳行の基礎なり。
謙遜とは啻(ただ)に言行に於いてのみならず凡の動作及び口気に於いて謙遜なるを指す。
或る者に対して謙遜にして他の者に対して倨傲なるなかれ。
その友たると敵たると貴人たると賎人たるとを問わず
凡の人に対して謙遜なれ。
真の謙遜とは斯かる謙遜を指す。(金口イオアン)
愛のあるその所にのみ忍耐はあり…
愛を身に纏いたる人に在りて一つの難事なし、
愛は困難を知らず。(金口イオアン)
神(しん)の一なるとは内心の一致を指す…
ただ和平を守るに止まらず
汝らの間に神(しん)の一、心の結合、一つの神、一つの霊のあらん事を務めよ。
老若、貧富、男女の別なく
皆牧者の指導のもとに在りてはハリストスを中心として一とならん。
一なる神の神(しん)は汝ら衆人を包容す
故に、汝らは神の神(しん)を自己に保有するを務めよ。
汝らが和平の繋ぎと聖なる愛を保有すべきは
聖なる教会の体の一なる事がこれを要求す。
各人に霊の生命と活動を与ふる神(しん)の一なる事がこれを要求す。
凡その人が嗣ぐに招かれたる天の福楽が一なる事がこれを要求す。
贖罪主救主の一なる事がこれを要求す。
新生命に転生せしむる洗礼の一なる事がこれを要求す。
凡その人を一つの愛にて包容し一つの全能力を以て治め
一つの摂理を以て護り
在らざる所なく満たざる所なき神造主、摂理者、父の一体なることがこれを要求す。
(主教フェオファン)
敬虔の認識は謙遜と温柔の認識なり。
謙遜はハリストスに則るもの、
傲慢、自尊、破廉恥は悪魔に則るものなり。
ハリストスに則れ、アンティハリストスに則るなかれ。
神に則れ、神の敵に則るなかれ。
慈愛者に則れ、残忍者に則るなかれ。
愛人者に則れ、疾人者に則るなかれ。
婚宴に入るものに則れ、暗所に立つ者に則るなかれ。
妄りに兄弟に命令するなかれ、
汝が他人の罪の軛(くびき)を己の頭に加えざらんがためなり。
(主教フェオファン)
聖使徒パウェルは汝らが啻(ただ)に救いの道を聞くのみならず
恐懼(おそれ)と戦慄(おののき)をもってその救いを成すを希望す。
蓋(けだし)、その救いのために恐懼せざる者にありて
一の尊貴なる及び偉大なる事を行うを得ざればなり。
単に恐懼をもってのみならず、恐懼の高度なる戦慄をもってその救いを成せ。
…パウェルはかかる恐懼を有したり、故に彼は言えり
「他人を教えて、自ら捨てらるる者とならんことを恐る(コリンフ前書9:27)」
如何にしてこの恐懼は生まるるか?
もし我等が、
神が何処にもあり、凡そのことを聞き、凡そのことを見、
啻(ただ)に言行のみならず心の底、霊魂の奥に起こりし一切を洞察すと
思念せんには
その時に於いてこの恐懼は生まるるを得。(金口イオアン)
我等はここ地上に安息を求めざらん
我等の居所のあるかしこに於いて光栄なる者とならんことを望まん。(金口イオアン)「我等の居所は天にあり(フィリップ3:20)
キリスト教の慈愛は
他人の悪行及び悪癖を寛過せざるとともに
深くその慈愛を人の心の奥に徹底せしめて何人をも排斥せず。
慈愛の模範は
子を慈育する母の行為、これなり。
…キリスト教の真正の精神の満てたる顔は
筆紙の形容し得ざる無量の慈愛に輝く。
この顔は甘き平和を宿し、衆人を慕わしむ。
…芳しき薔薇の香りは薔薇より発するが如く
慈愛はハリストス·イイススに在る精神及び生活から出ず。 (主教フェオファン)
汝らは地に属するものを求むべからず。 (金口イオアン)
汝らは選を蒙りし者(選ばれた者)
汝らは聖なる者
汝らは愛せらるる者なり
かかる(このような)称号を思うときは
熱心の火の加わること幾ばくぞ。
汝らは選を蒙りし者と名付けらる、
世に人は多く
汝らのみに非ず
しかるに神は多くの人の内より汝らを選べり
神は汝らがその選びし者を辱めざるを期す
ゆえに汝らは聖なる者なり。(主教フェオファン)
父が子を慈しむが如く
汝ら互いに慈しまざるべからず。 (金口イオアン)
慈心、仁心の者は己を忘る
而して(だから)、自然に謙遜なり。 (主教フェオファン)
「温柔」
何の反対にも乱されざる又何人をも乱さざる多くの徳を包括する善行なり
「恒忍」
あらゆる不快、冤罪、攻撃、侮辱、迫害、駆逐を
不断不変に忍耐するをいう。 (主教フェオファン)
仁愛は謙遜を生む。蓋し仁愛の者は謙遜なり。
謙遜より温柔生まる。蓋し傲慢の者は怒りやすし。
温柔より恒忍生まる。蓋し恒忍は寛大なり。 (福フェオフィラクト)
『汝らが凡そなす所のこと、
或いは言葉、或いは行い、
皆主イイスス·ハリストスの名によりてこれを為し、
彼によりて神父(かみちち)に感謝せよ』(コロサイ3:17)
皆主の名によって行うとは
彼に喜ばるるがために
一切を彼の光栄に向け…
一切を彼にささぐる祈祷にて囲み
祈祷をもって始め祈祷をもって終わり
業を始むるにあたりて祝福を求め
業を行う間にたすけを求め
業を終わるにあたりて感謝をささぐるを、いう。(主教フェオファン)
ハリストスの名の呼ばるるところに
何の醜悪なるもの不潔なるものの存するを見ず
食わんか飲まんか(霊務を)開始せんか
万事を神の名において
即ち神の助けを呼びて行え
まず神に祈りて業につけ、汝に悪結果なからん
万事を主の名によりて行え、汝に良き成績あらん
神の名をもって印せば一切の業は幸福の結果を来す。
(金口イオアン)
霊の目を閉じ罪の眠りにつくは
性(人間本性)のいたすところに非ずして自ら求むるなり
聖使徒は訓諭す
「けい醒(覚醒)謹慎せよ(テサロニケ前5:6)」と。
(金口イオアン)
神は滅ぼすが為に我等を召さず
救うが為に召せり 即ち
「我等の為にその子をたまえり」(イオアン3-16)
神はその子を賜うまでに我等の救いを望み
しかも単にその子を賜いしに非ずして
死において賜えり
人よ
その子さえも賜いて惜しまざる神に信頼して
失望するなかれ
現世の艱難を恐るるなかれ
汝を救い汝を地獄より奪うが為に独生の子を賜いし者は
如何ぞ汝の為に他の何物をも惜しまんや
…ゆえに
我等は彼を愛せん
然るに、我等を愛するその者を愛せざらんには
極めて無知なり。
(金口イオアン)
我等は如何にしてその身を神に献ぐるを得るか
眼は悪しきものを見ざれ(見るな)、これ献身なり
舌は恥ずべき事を言わざれ、これ献祭なり
手は不法のことを行なわざれ、これ燔祭なり
然れども、これのみにて足るに非ず
我等はすすんで善を行わざるべからず
即ち手は慈善を行い、口は敵を祝福し、
耳は神の言葉を聞くに敏からざるべからず (金口イオアン)
ハリスティアニンの智識に限界なし…
神(しん、霊)とは信者の潔き心に置かるる
聖神(聖霊)よりの知恵および黙示の恩賜を指す…
ハリスティアニンの本然の智識は今に至るまで一つの本源を有す
即ち、知恵の神(しん)これなり (主教フェオファン)
神(しん、=霊)は一切を啓示し
神の秘密を説明す
神の秘密を知ることは
「神の深きをも察する」(コリンフ前2:10)
一つの神(しん)に属す (金口イオアン)
一切を、
即ち、大なることも小なることも主に求めよ
凡そのことに於いて主に仰ぎ
たとえ自ら労するも
彼の手から来るものとして一切を受けよ (主教フェオファン)
心の奥より祈れ
舌端をもって(口先だけで)祈祷を唱ふるなかれ
何事を祈るも
祈るの必要を深く心に認め
その求むる所を主より受くるを確信せよ (主教フェオファン)
使徒パウェルは祈祷において
ただ求むるのみならず
その受けたるところを感謝するを勧む
蓋、過去のことを感謝することを知らざる者は
如何ぞ将来のことを求むる知らん
斯(か)く凡そのことを感謝し
悲しきことのためにも感謝せよ (金口イオアン)
祈り、特に司祭職(主教、司祭)の祈りの大切さについて
金口イオアンは「司祭職について」の中で。
彼は全世界の番兵として立ち、
凡その人の作業(行っていること)を知り
生者を知るのみならず死者をも知る
世界は彼が配慮に託せられ
彼は慈父の配慮を持って世界を包容す
彼は戦争の息止(休戦や停戦)
擾乱の鎮定、天下の泰平
諸民の幸福、個人及び社会の病難の断絶を祈る…
彼はかかる祈祷のためにいかなる心情を有すべきか
言うまでもなく、
モイセイもしくはイリヤ以上の心情を有せざるべからず。 (金口イオアン)
悪魔は祈祷の功徳を知るゆえに
力を極めて
祈祷するものを誘惑せんとす。 (金口イオアン)
ハリスティアニン(クリスチャン)の全生涯は
祈祷をもって一貫せざるべからず
祈祷の奥義は神を愛するに存す
新郎を愛する新婦は
その心に寸時も彼を忘れざるが如く
愛において神に結ばれたる人は
神とともに離れず
主につくものは主と一神(しん·霊)となるなり (主教フェオファン)
「その求むる所を告げて」(フィリップ4:6)祈れ
即ち、その求むるところを有体(ありてい、ありのまま)に言え
敢えて、多言美語を要せず…
心に思うところを自己の言葉にて告白せよ
かかる告白は
神に対する汝の信仰を証明す (主教フェオファン)
祈祷、ことに常住不断の祈祷を
これを経験せざる者に語り教ふるは
生得(うまれつきの)の「こ者」(目の不自由な人)に太陽の光線を語り
蜜を食せざる者にその味を語ると一般(おなじ)なり、
表信者克肖なるメレティの言うが如く
「祈祷は教師を要せずただ勉強熱心(熱心に務める)を要す
而して、その教師は祈祷する者に祈祷を与える神なり」 (「神の役者」の著者)
己を祈祷に強いよ
しからば主は汝の熱心を見て
その求むるところの祈祷を汝に与えん (聖大マカリー)
汝は
食はんか飲まんか座せんか労せんか旅行せんか
(食べるときも、飲むときも…)
常に「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみ給え」と唱えよ
主イイスス·ハリストスの名は汝の心の奥に臨み
汝の心に悪をまく蛇を鎮め
汝の霊魂を救はん
汝の心は主を呑み、主は汝の心を呑み
二つのものが一つとならん為に
常に主イイススの名を呼べ (金口イオアン)
汝はイイススの名の記憶を
その呼吸の如くに行え (階梯者聖イオアン)
汝もしその思念の悪しきを恥じ魂の覚醒を願はば
主イイススに向かって祈祷をその呼吸の如く行なふべし
しからば数日ならずして
その希望の達せられたるを見ん (イエルサリムの聖イシヒイ)
汝はその心その舌にて
立つも歩むも座すも床に横たはるも
何事を行ふも常に
「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみたまへ」と
唱へよ
しからば、このことを経験せし者が知る如く
大いなる慰安と喜悦とを得ん (テサロニケの聖シメオン)
もし汝、修士、ことに神品の修士が
自己の本分を忘れて兄弟の欠点を詮索することを快とせば
汝は自己の心を忘れ
自己の精舎(修行のための家)を知らず
真理より逸して岐路に迷い道ならぬ道を歩む者なり
しからば、遂にいかなる終点に到達すべきか (シナイの克肖者ニール)
ただ口に祈祷を唱ふるのみにては完全には非ず
神は人の哀情を察す
ゆえに口の祈祷を心の祈祷に合わせざる修士は
(修道士だけではなく私たちもですよ)
修士に非ずして黒き灰燼なり
ハリストスを心に印せざる修士はイイススの祈祷を解せず
書籍は祈祷を教えず、ただ祈祷の途を示すのみ (サーロフの聖セラフィム)
目を高く神に注げ
爾(なんじ)と、地に属する者と
何の関係かある
世が造りしものを、望むなかれ (克肖者ニール)
爾の心に
不潔の情欲が燃ゆるも
肉欲が興奮するも
悪魔の誘惑が爾を攻めるとも
信と望と忍耐と覚醒と祈祷と讃美と読書(神の言葉と聖師父の書)
ことにイイスス·ハリストスの名の称名とをもって
これらに勝て (克肖者ニール)
主は浮きたる(うわついた)高き声に耳を傾けず、
モイセイの嘆息を容れし如く
言ふべからざる衷心の嘆息に耳を傾く (克肖者ニール)
兄弟よ、
嘆息、涙、及び堅き望みをもって
人を愛する我等の主イイスス·ハリストスの
見えざる足を抱くをつとめよ (克肖者ニール)
たえず神を心に記せ
しからば爾の心は天とならん
斎を武器となし、祈祷を城壁となし
涙を浴水となせ…
天に参ずる者として
聖堂に参ぜよ
聖堂にありて、地に属することを
何事も言うなかれ、思うなかれ。 (克肖者ニール)
汝、もし手を労働に動かさば
舌は歌い、心は祈れ
神は我等が常に心に神を記するを要求す (克肖者ニール)
寸時も心に祈祷を絶つなかれ
起つも、座するも、歩むも、食するも、労するも
衆人雑踏の中に立つも
「主イイスス·ハリストス神の子や我罪人を憐れみ給え」との
簡単なる祈祷を心に絶つなかれ
信と愛とをもってするこの祈祷の熱心なる頻繁の黙誦は
汝の智の邪想を払い、汝の心の邪念を鎮む (若き日サロフのセラフィムに師事した老在俗司祭アウラミイ)
この不断の祈祷の尊き実を得んと欲せば
大いに力行(努力)するを要す
蓋し、天国は力行するものに与えられ力行するものこれを奪えばなり
されど力行するは汝自身にして
汝の他何人(なんびと)も汝のために力行するを得ず
(若き日サロフのセラフィムに師事した老在俗司祭アウラミイ)
「主イイスス·ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え」の祈祷は
汝が霊魂の呼吸であれ
しからば、イイススは汝の智と心より脱せざらん
イイススとともにせば一切は汝のために幸福と変じ
凶事も汝のために天のマンナとならん
(長司祭アウラミイ)
世に、聖詠(詩編)のごとく神を讃美し霊益を与ふる書は他になし
我等は聖詠をもって天使とともに神を讃美し
悪鬼を駆り(かり、追い出すこと)
王侯及び全世界のために神に祈る…
聖詠は大海に似たり
海の水は汲めども尽きざるが如く
聖詠の霊益は尽きず
(聖大ワシリイ)
神よ速やかに我を救へ、主よ速やかに我を助けたまへ
(第69聖詠、70詩編)
この句は自己を無力のものとなし
神を唯一の救助者となすの承認
すなわち神はこの句をもって祈る者に助力を与え
そのものを凡その災害より救うとの信仰とのぞみを含蓄す
この句をもってたえず神を呼ぶ者は
神を眼前にみ、神を慈父の如くに感じ
その庇護のもとに立つ
(克肖者イオアン·カシアン)
汝らは飲酒の悪癖が肉体を滅ぼすのみならず霊魂を滅ぼすを知れ
…飲酒の如く不和、仇怨、罵詈、汚念、放恣その他の悪因となるものはなし
ゆえに金口イオアンもその説教に言へり
「沈湎者(ちんめんしゃ;酒色におぼれる人)は
最も悪魔に喜ばれるものなりと。
(ザドンスクの聖ティーホン)
一定の時においてのみ伝道するなかれ
平安の時、もしくは聖堂にあるときのみならず
危難に臨むも獄中につながるるも
縲紲(るいせつ、縛り縄)に在るも
死を宣告せらるるも、伝道せよ
およそ、便宜ある時、機会あるときは
伝道するに時を得たるなり
(金口イオアン)
預言者及び使徒らによって我等に与えられたる聖書は神の真実の言葉なり
天の父はこの聖書をもって不当なる我等に談話す
故にハリスティアニンよ
福音書及び他の聖書を読む神の役者(教役者)の訓戒をきけ
またみずから聖書をひもときて
至上の神がその言葉をもって汝に語るところを読み、思念し、会得せよ
我等が神に祈祷するは神にむかって談話するものなり
我等が聖書を読むは
我等と談話し我等の願いに答ふる神の言葉を聞くものなり
(ザドンスクの聖ティーホン)
我に従はんと欲する者は己を捨てその十字架を負いて我に従え (マルコ8:34)
十字架とはあらゆる悲愁を甘受する決意を指す
神の道は日々の十字架なり
安逸の道を行きて天に達せし者なし
汝らは安逸の道の極まるところを知る
安逸の時に喜び、悲愁の時に顔をしかめるは汝のすべきことに非ず
天国の道は今も昔も十字架と死を以て通ぜらる
主は言う
現世において「その生命を得る者はこれを失い、
我がためにその命を失う者はこれを得ん」(マトフェイ10:39)
安逸の道を歩む者はその命を失い
十字架の道を歩む者はこれを得ん。 (シリヤのイサアク)
我に従はんと欲する者は己を捨てその十字架を負いて我に従え (マルコ8:34)
即ち、主はかく言う
我が門徒たらんと欲する者は我にしたがいておよその艱難を覚悟せよ
我は主、汝らは僕なり
故に、汝らはその主に従え
我は師、汝らは弟子なり
故に、汝らはその師に従え
我は天国への導き手、汝らは随行者なり
故に、汝らもし彼処に至らんと欲せば、その導き手に従え
(ザドンスクの聖ティーホン)
己を捨てるとは何のことぞ
汝の邪念を切断し、汝の心の喜ぶところを行うなかれ
己に善きことを疎み、悪を愛さざれ
己を敵視し他人を敵視するなかれ
他人を怒らず己を怒れ
汝を迫害し汝を陵辱するときは悲しむなかれ
旧き人即ち霊魂を害するおよその邪念を切断せよ…
このことは難事なるか
然り、難事なり。されど必要なり。
(ザドンスクの聖ティーホン)
十字架を背負いてとは何のことぞ
神の名のためにあらゆる艱難を甘受し死をも辞せざるを言う
たとえいかに苦痛なるも怨言せず
大胆にあらゆる苦難を忍ぶを言う
(ザドンスクの聖ティーホン)
ハリストスに従うとは何のことぞ
真実に痛悔し痛悔の実を結び
いかなる困難に遭遇するも
我等のために苦しみしハリストスを思いて
神の名のためにあらゆる辛酸をしのぶを言う (ザドンスクの聖ティーホン)
「およそ敬虔を以てハリストス·イイススにありて
生をわたらんと欲する者はみな窘逐せられん」(ティモフェイ後書3:12)
ハリストス·イイススにありて敬虔に生をわたらんとする者は
地上にその楽園を有せず天に楽園を有す
血は傷害窘逐の外何物をも彼らに与えず
何となれば、ハリストスに従う者の主眼とするところと
地のために生活し地上にその楽園を求める者の主眼とする所とは
全く相異ればなり
この二種の人は氷炭相容れず
地の人は天を求める者を窘逐す
しかもこれ神の僕のために幸福なり
神の仁愛はこれらの窘逐を彼らのために永遠の福楽に変ず
ゆえに彼らは確信と喜悦を以て神に光栄あれと呼ぶを得。
(主教フェオファン)
敬虔に生をわたらんと望む者は窘逐(迫害)せられん
使徒は窘逐なる語に悲哀憂苦の意を表せり
善道を歩む者にありて悲哀憂苦は免れ難し
彼は狭き艱難の道をたどる
蓋し言えるあり
「世にありて汝ら艱難をうけん」(イオアン16:33)
「それ人の世にあるは戦闘にあるが如くならん」(イオフ7:1)
悪と闘う人にありて悲哀なきを得ず
故に聖なる教会に労役する神の役者は
もとより安楽を求むべからず
現在の時は
戦闘、憂苦、愁嘆の時なり
(金口イオアン)
熱涙の祈祷は罪を清めるのみならず、
肉体の疾患及び病弱を癒し、人の全身を革新す
一言を以て言えば、人を再生せしむ。
ああ、祈祷の賜物はいかに尊とからずや
(クロンシュタットの聖イオアン神父)
「汝、苦をしのぶこと、イイスス·ハリストスのよき軍士の如くせよ」
(ティモフェイ後2:3)
福音宣教の働きに任じ
この働きのために受ける艱難を
ハリストスのよき軍士として耐えよ
汝は誰に属する軍士か心に考え
勇敢に軍士たるの働きを尽くせ
(フェオドリト)
聖福音書の戒めに従いて生活する者は
実に世に憎まれて在り
世は彼等を憎むも神は彼等を愛す
世は彼等を疎んずるも神は彼等を選ぶ
神に愛せらるると、世に愛せらるるといずれが優るか
全世界が我を憎まんと欲せばそのなすに任さん
ひとり神は我を愛しその慈愛において我を保護せん
主よ汝の慈愛は我に善し
「我にありては神に近づくは善し(聖詠72)
我はひとり爾(なんじ)及び爾の愛のほか
地にあり天にある何者をも欲せず
(ザドンスクの聖ティーホン)
もし汝は狭く苦しき道を歩むをハリストスに約束せしならば
汝の腹をせめよ
腹を喜ばし、腹を膨張せしめて
汝はその約束を捨つ
沈倫に導く飽食の道は広くしてこれに入る者多し
されど
いのちに導く節制の門は狭くその道は細くして
これを得るもの少なし
(階梯者イオアン)
狭き道に横たわるものは
十字架、苦難、忍耐、節制、献身、服従なり
広き道に横たわるものは
神の法の軽慢、放恣の生活、自愛、虚栄、讐敵、淫情、酒宴その他なり
(ザドンスクの聖ティーホン)
ハリストスは狭き道を歩めり
彼の心服者は彼に随従し
愛と忍耐と温柔と謙遜を以て彼の足跡をたどる
広き道には闇の王が立つ
現世のために労する者は
この道を通りて闇の王に尾す
人よ、汝はいずれの道を好むか?
(ザドンスクの聖ティーホン)
(神の役者よ)汝を窘逐(迫害)する者あるも
汝は窘逐(迫害)するなかれ
汝を陵辱する者あるも
汝は陵辱するなかれ
汝を讒詛する者あるも
汝は讒詛するなかれ
温柔なれ、しこうして悪に報いるに悪を以てするなかれ
(ザドンスクの聖ティーホン)
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/正教の霊的勧告集.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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平安にして出ずべし
聖体礼儀を生きる
About Holy Communion and Divine Liturgy
(「福音と世界」2000年5月号に投稿)
名古屋ハリストス正教会 司祭 ゲオルギイ 松島雄一
正教会の聖体礼儀
クリスチャンは、「新たなる神の民」の仕事(リトゥルギア)として、ハリストスの死と復活を、そしてその「よみがえりの生命」を自らの生活の場で、自らの生活全体によって証しする。使徒たちは、主の死と復活の直接の目撃者としてその体験を証言したが、「見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ20:29)と祝福される私たちは、ハリストスの体·教会にあって聖神(聖霊の日本正教会訳)の溢れの内にそれらを体験し、世に証しする。その体験の中心に、使徒たちから今日まで連綿と伝えられる聖体礼儀(リトゥルギア)がある。
正教会では通常の主日·祭日には、四世紀のコンスタンティノープルの大主教金口イオアンに帰せられる「金口イオアンの聖体礼儀」が行われる。
前半は、新約聖書の誦読·説教を中心とする宣教的な集いであるが、後半は、古代教会では信徒のみに参加が許された「神の民の宴」である。
まずパンとぶどう酒が厳粛な聖歌に伴われ宝座(祭壇)に献げられる。その際の祈祷文は、ハリストスの十字架への自己献祭を記憶し、この自己献祭によって、人間の神への献祭(交わり)が再び可能となったことを告げる。次に教会全体が「ハリストス我らの内に在り」「まことに在り、また永く在らんとす」と、主にある愛を確認し合い、ニケア·コンスタンティノープル信経の歌唱によって信仰の一致、教会の一致を表明。この一致のもとで、感謝とともに、主の救いの業、すなわち籍身(受肉)、最後の晩餐、その死と復活、昇天と再臨が記憶され、いよいよ「聖神の降下の祈願(エピクレシス)」が祈られる。この時、献じられたパンとぶどう酒のハリストスの体血への変化が成就する。次に、この主の体血のもとで、生神女マリヤ、諸聖人、主教、国を司る者、信徒兄弟姉妹、とりわけ苦難にある者たちが記憶される。最後に天主経(主の祈り)が歌唱され、教役者·信徒は主の体血を領聖(聖体拝領)し、私たちが献げた地の実り(パンとぶどう酒)が、私たちが真に神の民にふさわしく生きるための糧(主の体血)として贈り返される。「すでに真の光を見…」と終末的な光栄に与ったことを感謝し、終結の祈りに入る。
神と人と世界との、交わりの回復
この聖体礼儀は、教会の本質の表現でありその体験である。
ハリストスの死と復活の記憶によって、私たちは教会を、主がもたらした「新しさ」·神の国として体験する。主教(もしくは司祭)に司祷され教役者·信徒がそれぞれの役割(リトゥルギア)を果たしつつ進行する奉神礼(リトゥルギア)によって、私たちは教会を、ハリストスに導かれた「神の民」の、この「新しさ」·神の国への歩みとして体験する。そして領聖によって、私たちは教会を、終末に約束される「新しさ」の成就、永遠の生命の溢れる神の国の味わいの先取りとして体験する。
とりわけ領聖では、「肉体となった」「ことば」(ヨハネ1:14)が、現実に、そのお体と血を私たちのために「まことの食物」「まことの飲み物」(ヨハネ6:55)としてさし出され、神の救いの本質、その「新しさ」があらわにされる。
すなわち、領聖を通じて人は再び神との交わりを回復する。私たちの食物·私たちの飲み物が神の体血となり、神の体血が私たちの食物·飲み物となり、私たちは神に生かされ、神に感謝し、神を愛し、神のために自己を献げる者となる。
また、領聖を通じて人は再び互いの交わりを回復する。聖体礼儀に集う信徒が一つのパン·一つの爵から主の体血を分かち合うとき、そこには再び三位一体の神の似姿が回復する。即ち、自由と一致が互いを斥け合わずむしろ支え合う、真の「愛の交わり」が体験される。
さらに領聖は私たちに、この物質的世界に新しい光を投げかける。パンとぶどう酒がそのままに神の体と血であることは、人間の神への離反によって失われてしまった、物質的世界への神の祝福の回復である。
これらの三つの回復が人間的努力の功績や報酬としてではなく、神の恵みとして与えられた。この福音を、私たちは領聖という「領ける」行為の中で、神学的思弁や、「信じ込み」や、聖書の使信への単なる承認としてではなく、人間存在全体をあげて関与する現実として「体験」する。
日常生活への派遣
聖体礼儀の終結の部分で、司祭は会衆に向かい「平安にして出ずべし」と宣言する。これは、日常の煩いから奉神礼(典礼)の「美」に逃避してきた者たちがいわば精神安定剤的に陶酔する「宗教的平安·祭儀的神秘」への祝福ではない。逆に、逃避することなく日常生活の中に、この平安、即ち聖体礼儀が証しした神と人、人と人、人と世界の三つの回復(和解·平安)を携えて出てゆき、日常生活そのものをこの「平安」に満たされた神の国の新しさに変容せよという派遣の宣言である。聖体礼儀の中で喜びとともに確信された福音は、それぞれの日常生活の中で平安·和解·回復として具体化されてこそ、真に証しされる。
すなわち、クリスチャンは「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従う」(マルコ8:34)生活を通じて、聖体礼儀で体験した神との交わりを具体化する。あらゆる行為や思いが、神との交わりに向かうものか、そこから離れるものかという眺望のもとで、取捨され、生活の一切が神への献げものとなる。
また、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」という戒命はさらに「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マタイ22:39)という戒命に具体化される。ハリストス·神の愛によって、できないことを要求し人に自己定罪を強いる律法が廃棄され、人は愛することのできる者へと回復された。この回復を聖体礼儀で体験した私たちは、それぞれの生活の場で実践される愛を通じて、その回復が現実であることを示す。ハリストスの救いは、互いの分かち合いや相互理解への苦い断念とともに「自己性」の中に断片化されてしまっていた「個人」の群れが、再び「私たち」へと集め直されたこととも言えよう。クリスチャンはこの救いを、「互いに愛し合う」(ヨハネ13:34)ことにより、愛の断念の中で呻吟する「この世」に告知する。
また、互いの愛の内に、主の愛を聖体血=パンとぶどう酒として分かち合った私たちは、日々の食べ物を、生きる環境を、互いの身体を、この世界全体を神から贈られた神との交わりの媒体として捉え直さねばならない。人はこの世界を、自らを神とする自己完結的な生き方の「資源」として神から横領し続けてきた。自分の身体を自分の専有物と見なすことから、喫煙、薬物、暴飲暴食、ギャンブル、暴走、性の逸脱等による自己破壊が始まる。世界を人のための独占的な資源と見なすことから、環境破壊が始まる。まさにアダムが神に背いた結果「地はいばらとあざみを生じ」(創世記3:18)不毛となった。しかし今や人が神との交わりを回復することを通じて、「実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んで、…共にうめき産みの苦しみを続けて」(ロマ8:19)きた被造物全体が、その本来の光輝を回復する。パンとぶどう酒という「物」を神の体血として体験する私たちクリスチャンこそ、聖体礼儀でパンとぶどう酒へ示したのと同じ畏れと敬虔な関わり方を、人と物の関わりの中に再構築し、この回復を証しする。
これら一切がクリスチャンのこの世でのリトゥルギア(仕事、務め、奉仕)である。このリトゥルギアは聖体礼儀(リトゥルギア)と不可分にして一体である。
リトゥルギアからリトゥルギアへ
さて、しばしばローマ教会と正教会の違いの一つに「いつ聖変化がいつ起きるか」への理解があげられる。ローマ教会が「これ我が体…」という制定句が唱えられる時とするのに対し、正教会は制定句の後の(ローマ教会のミサにはない)「聖神降下の祈願」(エピクレシス)の時と主張していると受け取られることが多い。しかし、これは正確ではない。正教会の機密(秘跡)論は本来、機密を構成する諸要素の一部分だけを取り上げて機密全体の本質を規定したり、機密の有効性を論じたりはしない。「エピクレシス」の瞬間は確かに決定的な瞬間である。しかし、それはエピクレシスが祈願された瞬間に、今までただのパンとぶどう酒であったものが、ハリストスの体血に魔術的に変化するということではない。むしろエピクレシスの時に、聖変化が「成就」するのである。
聖体礼儀は「父と子と聖神の国は崇め讃めらる」という司祭の高らかな宣言、それに対する会衆の同意から始まる。教会·聖体礼儀という「船」は、この世を離れて、「父と子と聖神の国」、「三位一体の神の国」へ向かって旅立つ。私たちとともに、献祭されたパンとぶどう酒もこの船に乗って、この世にありながらこの世を離れて神の国の次元に高められていく。この上昇の過程そのもの、聖体礼儀全体が聖変化の成就へ向けての過程として、理解されねばならない。
しかし聖体礼儀を真に神の民の唯一の使命(リトゥルギア)として、また教会の世界への証しとして体験する者は、もう一歩踏み込んで言う。聖体礼儀最後の「平安にして出ずべし」によってこの世に派遣され、この世での働き(リトゥルギア)が再開される時から、実は既に次の聖体礼儀での聖変化は準備され始めるのだと。
信徒はその生活全体を奉仕(リトゥルギア)として神に献げ、そのリトゥルギアは聖体礼儀に献げられるパンとぶどう酒に集約され、パンとぶどう酒はこの世のそれぞれの場から集められた信徒全体の祈りと一つになり、教会の献げものとして、神に受け入れられ、祝福され、神·ハリストスの体血として与え返される。与え返された信徒は再び、「平安にして…」とこの世に派遣され、その恵みを一層豊かにこの世でのリトゥルギアの中で育て、再び次の聖体礼儀に献げものとして携える…。聖体礼儀の行われる主日はまさに成就の日、第八日であり同時に開始の日、第一日である。回復された神との交わりとはこの全体であり、決して祭儀的神秘の中での特殊な「霊的体験」ではない。クリスチャンは聖体礼儀を日々生きる。
終わりに
現代正教奉神礼神学の泰斗アレキサンドル·シュメーマン神父はこう言う。
「自らを『聖神の宮』とするためには、ハリストスが昇っていった天に自らも昇ってゆかねばならず、また、この『昇天』こそがこの世への伝道と職務のまさに前提条件である。これは初代教会信徒にとって自明なことだった。その『天』で、彼らは、神の国の新しい生命の溢れに浸された。この『昇天の奉神礼』からこの世へ戻ってきた彼らの顔には、神の国の喜びと平安が輝き、彼らはその真の証人となった。彼らは何の『改革へのプログラム』も『理論』も携えて行かなかった。しかし、彼らが赴く所ではどこでも、神の国の種子は芽を出し、信仰の灯がともされ、生活は変容され、不可能が可能となった。『この光はどこから来るのですか。どこにこの力の源があるのですか』と尋ねられたなら、彼らは確信を持って答えたであろう…」。(”For the Life of the World” SVS Press 1988 p.20)
その答えが「聖体礼儀」であることは言うまでもない。そしてそれは、揺るぎなく、「今もいつも世々に」変わらない、正教会の答えである。
ソース:
http://nagoya-orthodox.com
http://nagoya-orthodox.com/ja/平安にして出ずべし.html
名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH
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