セインツ Saints - JAPANESE ORTHODOX FLOWERS








エギナの聖ネクタリオス (+1920)

St Nektarios of Aigine Island, Greece

エギナの聖ネクタリオス

エギナの聖ネクタリオス(ギリシア語: Άγιος Νεκτάριος Αιγίνης, 英語: Saint Nektarios of Egina、1846年 – 1920年)は、正教会の聖人。日本正教会で多用される教会スラヴ語由来の転写ではネクタリイ。

修道院の設立と指導、数多くの著述、信徒の精神的指導、および数々の奇蹟によって知られる。神学者、哲学者、詩人、教育者、禁欲主義者、神秘主義者などと称されるほどの多才な面があった。歌詞は公祈祷の祈祷文によるものではないが、全世界の正教会で愛唱される聖歌『アグニ·パルセネ』(ギリシア語: Αγνή Παρθένε)を作曲してもいる。

1846年10月1日、トラキアのシリヴリアの貧しい家庭に生まれた。生まれた際の俗名はアナスタシオス·ケファラス(ギリシア語: Αναστάσιος Κεφαλάς)。14歳のとき、働きつつ教育を受けるためにコンスタンディヌーポリに移住。1866年からはキオス島の学校で教えつつそこに7年間住み、30歳で修道士となる。3年後、輔祭となり、ネクタリオスの名を与えられる。1885年にアテネ大学を卒業。大学時代から、多くの聖書註解を含む多くの著述を行う。

アレクサンドリアで司祭に叙聖され、カイロの教会に奉職。これは名誉ある職分であった。1889年に敬神の念と説教者としての実力、牧会能力が評価され、総主教ソフロニオスによりペンタポリス府主教に叙聖される。すぐにネクタリオスの人望が高まるが、その声望を妬んだ聖職者達によって噂が立てられ、噂を信じてネクタリオスの弁明を聞かなかった総主教ソフロニオスにより、弁解の機会も与えられず教会裁判の手続きも経ず、エジプトから追放される。1891年にギリシャに戻り、何年かを説教者として過ごす。

1894年にアテネ·リザリオス教会学校の校長を任ぜられ、15年間在職しこの間多くの著作をのこす。1904年には何人かの修道女の求めに応じ、エギナ島に至聖三者女子修道院を設立する。1908年12月に神学校校長の職を辞し、エギナ島の至聖三者女子修道院に一修道士として隠棲する。ここでも著述を行い、精神的指導を求めて来る近隣の人々の痛悔を聞いた。
1920年11月9日、永眠。永眠後の遺体の傍らで、重病人が快癒する奇蹟が起きたと伝えられている。埋葬式には多くの人がギリシャ·エジプト全土から訪れた。1961年4月20日に列聖。生前からネクタリオスを聖人とみる人々が多かったが、正式な列聖はこの日に行われた。

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生神女マリヤ福音祭

The Annunciation of Holy Virgin Mary

創造と、人が神様に対し大きな罪を犯してからというもの、神様は救い主イイスス·ハリストス(イエス·キリスト)がこの世に来られることを人間のために準備しておられました。人は大きな罪をおかし、神様御自身が人類を救うために降って行かなければならないだろうと言うことを神様はいつもご存知でした。

人々が救いを受け入れ、主に従って行く用意ができる、その時を神様はまた前もってご存知でした。神様はまた、救い主の母となれる大変清らかで、神様に 従順な女の子が現れる時を前もってご存知でした。

聖なる乙女マリヤは、そうした清らかで神様に仕えるのに 充分 な人でした。

マリヤは、両親のお祈りへのお答えとして生まれました。三才の時、宮に連れて行かれ、神様に差し出されました。その時からずっと、マリヤは神様の家に暮らし、いつも神様にお祈りをするという奉仕の他は何もしませんでした。

マリヤが12才になり、これ以上宮にいられなくなった時も -律法でそのように決められていました- マリヤは、このまま神様にお仕えしたかったのです。でもマリヤに一体何ができたでしょうか? マリヤは、自分自身が、生涯を神様に差し出し、神様に仕えるために、生涯清らかでいることを望みました。だが、その頃はまだ女子修道院 というものは一つもありませんでした。そこで、マリヤも修道女になることはできなかったのです。マリヤは祭司のところへ行き、マリヤが心から望んでいることを話しました。その老祭司は、マリヤが神様を愛していることを聞いて大層喜びました。祭司は神様にお祈りし、神様は祭司に何をしなければならないかお答えになりました。マリヤには一人のごく身近な親戚がいました。多分、伯父さんだったのでしょう。大変年をとった人でイオシフ(ヨセフ)と言う名前でした。イオシフ(ヨセフ)の奥さんは、イオシフ(ヨセフ)がこれから育ててゆかなければならない子供をのこしてすでに死んでいました。

祭司はイオシフ(ヨセフ)に話し、マリヤがイオシフ(ヨセフ)の 許嫁 となれるようにし、そして、イオシフはマリヤを助ける支度をしました。こうしてマリヤは、生涯処女として神様に仕えることができました。同時にマリヤは、お母さんを亡くしたイオシフの子供たちの母親としての役目も果たすことができました。こうしてマリヤはイオシフ(ヨセフ)と結婚し、イオシフの家に向かいました。

神様がお決めになったある時、聖処女マリヤは部屋で神様にお祈りをし、縫い物のお仕事をしていました。と、突然、強い光が部屋を照らし、マリヤの前に一人の輝 いている天使が立っているのが見えました。マリヤはすっかり驚き、糸を下に落とし、明るい光から自分を守ろうとするように手を上げました。

光輝く天使は、マリヤに優しく、愛情をこめて、そしておごそかな声で「マリヤ、聖神に満たされた人、喜びなさい。主はあなたと共にいます。あなたこそすべての女の前で祝福される人です」と言いました。

それを聞いてマリヤはあわて、それ以上に驚いてしまいました。マリヤは思いました。「でも、私は卑しい罪人なのだ。私のことを『聖神に満たされた人』なんて、なぜこの天使は言うのだろう?」

それから天使は、マリヤが救い主の誕生を成させるために、ただ一人選ばれた者であることを告げました。「でも、どうして私に子供が生めましょう」マリヤは答えました。「私は処女ですのに。」

天使はマリヤを安心させました。「聖神があなたのところに来て、一番強い光があなたの上に 輝 くでしょう。」天使はマリヤに、これからマリヤが生もうとしているハリストス(キリスト)は神の子となるであろう、そして、子供が生まれた後になってもマリヤは処女のままでいるだろう、ということを話しました。

天使ガブリイル(ガブリエル)がそれを言うと、マリヤは床にひれ伏して、涙を流して神様にお祈りを始めました。

実に、マリヤのお腹にできた子は、心から神を受け入れ、神様について行こうとする人々を救うために人となられた神でした。私達が聖母マリヤを Theotokos(テオトコス)と呼ぶのはそのためです。テオトコスとは「神を生みし者」(生神女)と言う意味です。

この天使は、マリヤに別の不思議な誕生について告げました。「あなたの身内のエリザベタは一度も子供を生んだこともなく年をとっていますが、今、子供を宿しています。神様はエリザベタとその夫にも、子供が生まれるようになさいました。」この子は先駆者イオアン(洗礼者聖ヨハネ)となった人です。

しっかりとした信仰と謙遜によってマリアは大変すなおに神様のご意志を受け入れました。「私は神様の召使です」とマリヤは言いました。「あなたが言われるようになりますように」

こうして天使ガブリイル(ガブリエル)はマリヤと別れました。後になって、ガブリイルはイオシフ(ヨセフ)のところにも現れ、マリヤが生もうとしている特別な子供のことを告げました。マリヤは喜びに満ちていました。マリヤは今までよりも祈りと 斎 をはじめました。

できるだけ早いうちにマリヤはエリザベタが住んでいるユダヤ地方の町に出掛けて行きました。

主の使いの天使は、すでにエリザベタにはマリヤから生まれる特別の赤ちゃんについて告げていました。それは神ご自身が私達を救うために、小さな子供となって地上に来られる様子です。マリヤがエリザベタの家に入っていくとエリザベタはマリヤに会いに急いで出て来ました。マリヤは「おめでとう、エリザベタ」と親戚の挨拶をしました。その時、エリザベタのお腹の中にいた赤ちゃんのイオアン(ヨハネ)は喜んでおどりました。

エリザベタは「主の母が私のところに来てくれるとは何とすばらしいことでしょ う」と言いました。

マリヤはエリザベタのところで三カ月間暮らし、ナザレに帰りました。イオシフ(ヨセフ)は聖母を今まで以上に尊敬と畏れをもってお世話しました。

ソース Source:

http://www.enromiosini.gr/orthodoxy-multilingual/

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パイシオス長老との談話」から序言と伝記

アタナシオス ラコヴァリス 著

The life of Saint Paisios of Mount Athos, Greece (+1994)

私は長老パイシオス神父のことを12年間以上知っている。彼が私を自覚的な正教信徒にしてくれたのだ。彼は信仰においても実生活でも私を導いてくれ、生活上のあらゆる問題点について助言してくれた。

私は聖なる山(アトス)で7年間以上暮らすという祝福を得た。5年間はAthoniada Schoolの教師として、そして2年間はイコン画を学ぶために。私は長老のすぐそばにいたかった。彼に会った瞬間から、私は彼にひきつけられずにはいられなかったからだ。

私はしばしば言ったものだが、彼は母よりも私を愛してくれた。私がこんなことを言うのを母が許してくれるように。母は実際私をどんなに愛してくれただろう。しかしパイシオス長老の愛は普通の人間的愛よりはるかにまさるものであった。彼の愛は、天的なものであり精神的なものであった。

パイシオス神父は私に対してまるで実の父親、いやそれ以上の者のように接してくれた。私はしかし自分自身を放蕩息子のようにいつも感じていた。私は彼を“父”とはとても呼べないし、私が彼の精神的な息子であるなどとは、とてもではないが言えないのだ。その理由だって?私は彼にちっとも似ていないからだ。私は、彼の美徳にならって心からの善意を持とうと思っても、とうていできない。「もし私を父と呼ぶことを願うなら、私の業にならえ」と言われている。じゃあ、私はパイシオス神父にならったか?とんでもない。だから彼を父と呼ぶ権利は私にはない。長老の徳は彼の徳で、私自身の意気地のなさは私の意気地のなさなのだ。

彼と会話した後、そう頻繁ではなかったけれど、彼の助言を覚えておくために彼の言葉を書きとめておいた。ふつうは会話の直ぐあとで、あるいは数時間後に、たまには1日か2日後に、私は長老の言葉をそのまま書きとめた。これらの言葉を書きとめる時には、それがいつ話されたかに注意して日付を入れた。これらの言葉は彼の庵を訪問した時あるいは徹夜祷のあと彼と話す機会があった時に話されたものである。

長老が永眠された今、彼の助言を私の信仰における兄弟姉妹に伝えることが私の義務だと考える。多くの人達がそれらの助言を実際生活の中に取り入れたいだろうし、それによって私よりずっと利益を得るだろうと私は信じている。幸いなる者は言葉を生きる人であり、言葉をただ聞いたり読んだりするだけの人ではないのだ。

祝福された長老パイシオス、この世での名前アルセニオス エツネピデスは、1924年7月25日にカッパドキアのファラサに生まれた。彼はコニツァで成長し、アトス(聖なる山)で修道士になり、そこで彼の人生の大半を過ごした。彼は1994年7月12日に亡くなり、テッサロニカのソウロウテにある神学者ヨハネの「聖なるいおり」に埋葬された。まだ生きている間に彼は多くの人々によって聖人と考えられていた。彼のあらわした奇蹟について数百のサインつきの証言がある。

パイシオス長老の伝記的記事

祝福された長老パイシオス、もともとの名アルセニオス エツネピデスは、1924年7月25日に小アジアのカッパドキアのファラサに生まれた。その地のギリシア人達は2500年間ずっとその地に暮らしていたのだが、小アジアで争乱が起こり、トルコ人による迫害と虐殺から逃れるため難民としてギリシア本土への避難を余儀なくされた。長老の家族は結局ギリシアのエピロス州のコニツァに根をおろし、そこで彼は成長した。

彼はまだ子供の頃から信仰的な傾向を示した。「私は朝わずかな水をもって家を出て、山の岩の上に登り、登塔者[訳註;シリアのシメオンなどのように、塔の上で日夜断食と祈りを続ける修道士のこと]のように祈ったものだ。(彼は笑った)…午後になってお腹がすいてくると…考えを変えた…。『ちょっと食べるために家に帰ろうか』、そう言って岩から降りたものだ」。

…「少し大きくなると、同年代の仲間とつきあわなくなった…彼等はかわいそうな小鳥を殺し、その他にも私の好まないことをするから。こうして、私はもっと小さな子供達と仲間づきあいを続けた。小さな子供達は、私が年長なので私をリーダーにしてくれ、私が彼等とつきあってくれるのを喜んだ。私は断食もした…小さな子供達も断食したがった…こうして、私は彼等の母親達と問題を起こした…。『彼とつき合わないように、彼はおまえを肺病にしてしまうよ』、と母親達は小さな子供達に告げたものだ」、と笑いながら彼は私に話してくれたことがあった。

若い頃から彼はそのような性向を示したが、それは聖名をいただいたカッパドキアの人、聖アルセニオスが彼について預言したとおりだった。彼は信仰に大きな関心を払い、祈り、断食、そして修道的生活に対するあこがれをもって子供時代を生きた。

「…想像してごらん。鐘が鳴り出す前の、朝とても早く私が教会に行っていたことを、そして神父さんが教会を開けに来るのをよく待っていたことを…。私はそのようなあこがれを持っていた…。かつて、私の兄が、私を少し矯正しようとして、教会にそんなに入れ込むべきじゃない、と私に向かって叫びはじめた。そして教会の本、シノプシス[著者註;ナッセルの「Devine Order礼拝書」に相当するギリシアの礼拝書]を取り上げ、ベッドの上に放り投げた…。私は彼のこの行動のために度を失い、私の子供っぽい目からみてもそれを不信心ととらえた。そして激しくそれに反応した…」。

パイシオス神父はこのように子供時代を過ごした。彼は修道的生活にあこがれていたため、このような生き方がますます強められていったのはごく自然なことだった。

あるとき彼は、私を正しくしようとして、次のような話しをした。「…私が若い頃、女の子のことで人の噂にならないように、いつも下を向いて通りを歩いていたものだ…。私は誰が隣を歩いているか見ようとはしなかった…時には知り合いや親戚がそばを通り過ぎ、私が挨拶をしないという悪い噂になった…昔、私のいとこの女性が私の母親に不平を言ったことがある。『アルセニオスったら、私に挨拶しないのよ』、そして私の母はそれを私に告げた…。私は母に言った。『母さん、道で女の子を見つめるより他に、僕には他にやる事がないとでもいうの』」。

彼は兵士として戦争[訳注;第二次世界大戦あるいは内戦]に4年間行っていた。「何か危険なことが企てられるたびに、私は行くようにした。もし、私が冷淡に断ったために誰かが代わりに行って、もし殺されでもしたら、私の良心は生きている間中ずっと苦しむだろう。一方、自分が戦闘で殺されるのはたった1回だけだ」。

「ある時、軍の宿営地が爆撃された。私は逃げて泉近くの水たまりのくぼみに自分の体を押し込んだ。少しすると誰かが来た。『入れる?』と彼は聞いた。『入りなさい!』と私は答えた。そのくぼみは明らかに1人分しかなかった。その男は自分自身を守ろうと必死になり、恐れのあまり私をくぼみの外に押し出しつつあった。それからもうひとりがやって来た…。私は完全に外に押し出された。かまうものか、『神様が備えて下さるだろう!』…私が外に出るやいなや1発の弾丸が通過し、私の頭を剃った(笑い)…こんな風に、皮膚に当たるのを丁度防ぐように、私の髪に1本の直線を残した…もし、弾丸が1cm低かったら私を殺していただろう…。私は神様の備えに驚いた」。言い換えると、彼が修道士になる前でさえ、長老の自己犠牲的な心は、仲間の人間に対する愛のためならば死んでもかまわないという領域にまで達していたのだ!!!…我々、同時代の人間は、このような心から何と程遠いことだろう…。

「小隊にひとりの仲間がいて、この人は神様を引き合いに出して誓うのだった…彼のやりかたは間違っていた…何回も私は彼に誓わないように言ってきかせた…私はそのことで彼と喧嘩さえした…彼は私の言うことにも将校の言うことにも耳をかさなかった…彼は神様を引き合いに出して誓うことを続けていた…。あるとき軍の宿営地で、私達が働いていたそのど真ん中に1発の爆弾が落ちた…。誰も何も被害をこうむらなかった!!!…ただ、誓っていた人にのみに、とても小さな破片が当たった…どこにだと思う?彼の舌に!!歯にも、唇にもほんの少しも触りもしなかった!!ただ彼の舌のみが膨れ上がった…それは西洋カボチャのようになり、口の外にぶらさがるようになった!…戦争中はそのような驚くべき事がたくさん起こった。そのために、軍の宿営地では敬神の思いが大きくなった…」。

「…あるとき私達はテッサロニカで行軍しようとした。将校達は私達に歌を歌うように命じた;兵士達は歌おうとしなかった…将校達はまた命じた…しかし、またも沈黙…将校達は怒った。私は兵士達に『なぜなんだ、何か言おうよ』と言ったのだが、彼らは何も言おうとしなかった…私達が軍の宿営地に戻った後、将校達は私達を罰した…彼らは私達の腰から上を裸にし、ぐるぐる回りに走らせ、ベルトで鞭打った…命令違反は戦時では深刻な不服従だったのはわかりますね…私には責任はなかったのだけれど、私も彼らと一緒に走った…将校達は私に向かって叫び、走っている集団から抜け出るように私をさし招いた。しかし、私はそれを見ないふりをして集団から出なかった。私だけでは出たくはなかった…将校達が私達全員を許すか、それとも私も兵士達と一緒に走るか、そのどちらかしかない」。若い頃、彼はそのようなやり方で行動していた。彼の自己犠牲と勇敢さによって、彼は、兵士達からも将校達からも、全員の大きな感謝とともに愛と尊敬を集めた。

「…その後私は働き、未婚だった姉妹のために結婚持参金を作った。私は修道士になるために彼女が結婚する前に家を離れた…彼女が結婚することが神様のご意志かどうか、私には分からない…彼女自身は結婚しないことを望んでいたかもしれない…」。

30歳前後に彼は聖なる山(アトス山)の修道士になった。彼は多くの試練にあった。しかし、彼には神様からの大きな助けもあった。彼はまたコニスタの聖ストミオン修道院で禁欲主義の修練をした。そこでは彼は自らの手で野生の熊に餌をやった。聖霊が彼の魂を平安にし、それが野生の動物をも安和にしたのである…「…野生の動物でさえ、もしあなたが愛をもって近づけば、それを理解し、あなたを悩まさないだろう…」と彼はかつて私に話したことがある。しかし若い人でも年寄りでも、彼のこの行動を真似てはならない。なぜなら、私達の魂の情念の野生性が「野生」動物を乱暴にさせ、私達を危険にさらすだろうから。

彼は約3年間シナイ砂漠の聖エピスチメの洞窟にいた。日曜日ごとに彼はふもとの聖カテリーナの修道院におりていった。その間の1週間のあいだ、彼はひとりで砂漠の静寂の中で苦行していた。時々一人あるいは二人の遊牧民が修道士達を訪問したが、彼は持っていたわずかのものから彼らに寄付を与えた。水でさえわずかなものであった。「…そこの砂漠の乾燥の中で、私は神様の備えを讚栄した。ある岩にひとつの亀裂があって、少量の水が一滴ずつ滴っていた。そこに私は小さなカンを一晩置いておき、水を集めた…私には十分な量だった…それ以上はまったく必要なかった」。

シナイ砂漠でパイシオス長老は多くの聖なる経験をしたが、悪魔とのはっきりとした戦いもまた経験した。一般的にいって、私は長老の修道的戦いは私達の怠惰な時代、−そこには怠惰な人々と思考を訓練することを怠る風潮があるのだが−、の限度をはるかに超えていたと信じている。長老は、しかし偉大な闘争者だった。彼の闘争は、4世紀の古代の修道士達の闘争とのみ比肩できる。

私達、考えを訓練することを怠っているもの達にとって、その闘争のことを聞く事さえ恐ろしいことである!!…

謙虚な長老、ポルフィリオス(マラカサ)がパイシオス長老について以下のようにおっしゃったのを私は聞いたことがある:「パイシオス神父の受けた恵みは私の受けたものよりずっと価値のあるものです。なぜなら、彼は闘争を通じて得たのに対して、私の場合は神様が人々を助けるようにと若い頃から私に恵みを与えて下さったからです…神様はパイシオス神父のような聖人を400年ごとに一人地上に送って下さる!!!…」

聖なる山において彼は禁欲主義を修練し、彼の人生の大半を過ごした。神様が彼に贈った能力は沢山あった。彼には治癒の賜物があった(彼は多くのしかも多様な病気、ガン、生まれついての麻痺、その他、から多くの人々を癒した)、彼には悪鬼に対抗する賜物があった(彼がまだ生きている間に多くの人々から悪鬼を取り除いた)、彼には預(予)言の賜物があった(彼は、多くの人に将来彼ら個人レベルで起こる事柄について告げた。また、彼はまた私達の国の歴史に将来起きるであろうことも預言した)、彼には透視の賜物があった(彼はそれぞれの人の心を深く、その人が自分自身を知るよりさらに明瞭に、知っていた;この理由によって彼は正しく正確に助言し、それぞれの人は必要な言葉に耳を傾けた)、彼には精霊を見分ける賜物があった(彼はある精神的な出来事が神から来たものか、あるいは試み迷わせようとしている悪魔からきたものか、を厳密に知っていた)、彼には明察力の賜物があった、彼はそれぞれの場合に、神の意思が何であるか、そしてそれを明らかにするべきかどうかについて知っていた。それぞれの場合に、彼はどれが良くて、正しいものであるかを知っていた。非精神的な事項でさえそうであった。例えば、ある時ひとりの大学の医師が病院のために2種類の機械のうちどちらかを選択しなければならなくなり、議論していた。彼は決める事ができなかった。彼はパイシオス長老に尋ねた。長老は彼にこう答えた。「この機種を選びなさい。なぜなら、その機械はこんな場合に使えるこんな機能を持っていて、あなたがあれこれと使えるように、こんなふうに働くから」。いいかえれば、彼は小学校も修了していないのに、彼は学者と技術者を合わせたような特別な人間であるかのようにその医師に話したのである!!!もしこれが神様からの啓示でなければ、一体何だろう?…彼には神学の賜物があった。彼が聖人、天使、処女マリアについての多くの精神的経験から、また造られざる光を一度ならずたびたび見た経験からも、彼は真の神学者となっていて、神の神秘について深く知っていた。かつてある大学の神学の教授が賞賛とともに多くの人に次のように話していた:「長い間をかけて、私がいくら試みても答えを見つけられないような10問の神学的問題を私は集めてきた。そこで私はパイシオス神父のところに出かけて行って、これらの難問のすべてについて質問した。30分のうちに彼はすべてについて解決してしまった!…」

もし、私達がパイシオス長老に与えられた賜物とその力を数えあげようとするならば、きりがないだろう。これが誇張だとは考えないでほしい…いや、それは現実なのだ。神様ご自身がそんなにも多くの賜物でパイシオス長老を飾り栄誉を与えたのだ。そして神の賜物は、神ご自身のように終りなく無制限なのかもしれない。

すべてのパイシオス長老への賜物のうち、私を最も印象づけたものは彼の愛であった。完全な自己犠牲を伴った、制限のない愛、ためらいのない愛。火のような、甘美な、無限の力をもった、天の愛。彼の内部からそそぎ出る愛、それには差別はなく、善人も悪人も等しく暖かく励ますような愛であり、彼の友も敵も、ギリシア人だけではなく外国人にも、価値ある人だけではなく価値ない人にも、正教信徒だけではなく他の信仰をもっている人にも、人間だけではなく他の動植物にも、何よりも神様に愛をもっていた。これは人間の愛ではなかった。そのような愛はただ聖霊のみが人間の心の中に生じさせることができる。人間の「愛」はとても小さく自己追求的で、ひどく一時的かつ不安定で、ひどく自己中心的かつ圧政的で、いとも容易に怒りと憎しみに変わるので、パイシオス長老の愛とこれらの人間の「愛」を比較することは私達にとって恥ずかしくも不正なことである。

彼のまわりに人々を集めたのはこれらの賜物であり、パイシオス長老の愛であった。毎日、ひっきりなしに彼の庵に多数の人々が訪れた。長老は人々の苦痛、苦悩、問題を集め、その人々に解決法、喜び、平安を返した。何時でもまたどこにでも必要とあれば、彼と神様は彼がどこに行くべきかを知っていた。彼は神的な権威をもって奇跡的に調停し、解き得ないことを解いた。

パイシオス神父に関係した奇跡的な物語について署名つきで保証している人々が多数いる。関係した書籍も印刷されてきた。しかし、奇跡的な物語についてしゃべらなかった人々も沢山いるし、パイシオス長老が巧妙に隠した奇跡的出来事はもっと沢山ある。パイシオス長老は人々に対する神様の贈り物だった。

彼の名声はギリシアを超えて広がった。オーストラリアから、アメリカから、カナダから、ドイツから、ロシアから、ルーマニアから、フランスから、アフリカから、そしてあらゆる所から人々はやってきて彼に会い、彼の助言を求めた。そしてこれらのことについて、ラジオ、テレビ、新聞、などのマスコミが彼の生きている間に述べ立てる事はなかった。マスコミは教会の人達の醜い事だけを映し出し、大げさに書き立てる。マスコミは良い物事、驚くべき物事、そして聖なる物事について悪口を言う事ができない。そこでマスコミはこれらの物事を無視し、人々には聖なる出来事を知らせないようにする。しかしながら…人々には自分自身の手段があるし、神様はご自身の手段をもっておられる。パイシオスのうわさは彼の善行と奇跡に仰天した人々の口から他の人々の耳に広がったのだ…神様ご自身がパイシオス長老を突き出したのであった。

彼のもとを訪れる事が出来ない寝たきりの病人達や婦人達と会うために彼がアトス山を出た時には、数千人もの人達が彼の祝福を得るために来たものだ。車で来た人達はテッサロニカのソウロウテにある神学者聖ヨハネの女性修道院に常時来てはまた去っていった。道路の脇に駐車している車の列は1kmを超えた。

数千通もの手紙も彼のもとに送られてきた。「精神病の問題、ガン、または離散した家族。これら3つのうちのどれかが現代の人々を責立てている苦難だろう…人々はこれらについて私に手紙を寄越した」。面談によってあるいは手紙によって、その苦痛はパイシオス長老に流れ込んだ。そして彼はその苦痛を自己犠牲によって担った…真剣に。彼は他の人々を愛していたので他人の苦難を彼自身のものにした。他人が苦しみを受けているのを、彼は見過ごすのを欲しなかったし、無関心ではいられなかった。もし可能ならば、彼は他人の代わりに十字架の重荷のすべてを肩に担ったことだろう。

パイシオス長老は他人を癒したけれど、彼自身の病いを治して下さるように神様に懇願しようとはしなかった…むしろ病気に耐える事を望んだ。「…精神的な1フランかそこらを稼げるように…老年だから」と彼はチャーミングに言うのだった。まだ兵士だった頃に彼は足に凍傷を受けたのだが、手術で切断しようとする医師から逃れて足底に傷を負ったまま暮らした。「まるで釘を踏み抜いたようだった…そのため、ある時にはかかとに、時にはつま先に、また時には側面に体重をかけたものだ」と笑いながらその不運を冗談にして私に語った…。しかし、彼は教会の椅子には座らなかった…徹夜祷ではずっと立ち通しだった。このようにして彼は若い人達に難事に取り組む精神をも教え込んだ。

パイシオス長老は多くの病気にかかったが、雄々しさと難事と戦う精神的訓練によって病気のすべてに耐えた。彼は苦痛を笑い飛ばし、むしろ楽しいものにした!!…

かつてヘルニアにかかった時には、彼はぼろ切れでお腹をしばり、医者には行かなかった。私は気も転倒する思いで医者に行くように頼んだ。すると彼は私に話し始めたのだが、それが病気を笑い飛ばすような冗談だったので、しまいには私も笑い始めてしまったのだった。

最後に、老年になって彼はガンにかかった。これは、まわりの人の病気を軽くするためにパイシオス長老がそれを神様に頼んだためだった、と私や他の多くの人達は信じている。彼がかつて私に語ったことがあるからだ。「病人が治るように神様に祈る時には、神様に次のような定めをお願いしなければならない、『彼から病気を取り上げて私に与えて下さいますように』または少なくとも『彼の手助けが出来るように、彼の病気の一部を私に与えて下さい』…我々の弱さを知る善なる神様はその病人を治すのだが、私達には何も与えないかもしれないし…時には何かを与えるかもしれない…もし、我々がそれに耐えられると神様が見て取るならば…。いずれにしても我々の祈りが聞かれるためには、そのような定めを受けなければならない…」。

この心の持ちようは自己犠牲の精神である。そしてパイシオス長老はそれを十二分に持っていた。彼は訪れた何千もの人々の苦痛と病気を自分自身に引き受ける事を望み、それらを喜んで自分の身に引き受けた。彼の生命は仲間の人間達のための犧(いけにえ)だった。

彼は自分の病気については話さなかった。彼は我々を動揺させないように病気を隠したし、それを隠し通す事が出来ないで我々がそれに気付いた時には、それがあたかも何か重要ではないかのようなふりをした。ガンに対しても同じだった。ついには出血と衰弱が始まった。

彼が病気である事は皆が気付いていた。我々は彼に医者のところに行くように頼んだのだが…しかし、駄目だった…そこで病気なのが分ったからには、医者の方がアトス山に来るようになった。検査を受けるのを彼が許すように説得するために。一度アテネからある病理学者の大学教授がパイシオス長老を訪問するためだけに来た事があった。私はその医師を長老の庵に案内した。しかし、とうとう彼もどうしても長老を検査することが出来なかった。多くの医者が来たが、誰もうまく説得出来なかった。

しまいには様々な高位の聖職者までもが彼に医学的処置を受けるように圧力をかけはじめた。府主教座下自身が「検査を受けるように」と命じたと言われている。

ある医師が、信仰のある人だが、長老の感性を理解して彼に以下のように告げた。「私はあなたを治療するにあたって、農夫の保険しか持っていない人に対して行うような治療をし、それ以上のことは決してしないようにします」。思うに、最も貧しい人が受ける以上の医学的処置を受けるのを長老の感性としては決して許したくないのだろう。長老は貧しい人々より手厚い治療を受けるのを不正だと考えていた。そして確かにこれは不正義であり、我々現代の人々が持つ無慈悲さのさらなる印である。我々と近親者は最高の医者と最高の病院に行けるのに対して、ひどく貧しい人々は病院の大部屋の粗末な簡易ベッドに投げ込まれるし、もっと貧しい外国の幼児達は解熱剤がないために死につつある。この不正義、つまり罪深い人間の邪悪な精神に満ちたこの世のもたらしたものは、今日世界のいたるところに存在する…しかし、天なる正義は物事が本来あるべきところに戻るのを忍耐強く待っている。アーメン。

最終的にはパイシオス長老はガンの手術を受けた。私の考えでは、彼は従順のために手術を受けたのであって、彼自身の望みには反していたのだと思う。彼が病気に直面した時の、このあらゆる態度を通じて、我々が学ぶものは多かった。

恐ろしい苦痛が襲うと、彼は叫び出さないように、また他の人々をうろたえさせないように聖歌を歌うのだった。彼は極度に敏感だった。彼は他の人達の重荷になったり他の人達の気持ちをかき乱すことを望まなかった。

ある人が長老を少しでも楽にしようとして、長老には何も告げずに、長老の苦痛の一部をその人に与えてくれるように神様に祈っていた。その人と長老が会った時、何も話さないうちに長老が彼に言った:「神様にそのような事を願ってはいけない…この苦痛はあなたには耐えられるものではない…願ってはいけない…耐えられないだろう…神様にお願いしてはならない」。

彼が死ぬ2、3日前、我々は皆で彼を訪れ、最後の祝福をいただいた。彼は1994年の7月12日に永眠しテッサロニカのソウロウテにある神学者聖ヨハネの女性修道院の中庭に埋葬された。

彼の墓は今日では人気のある巡礼地になっている。この数年私は何回もそこを訪れているが、その度にいつでも人々が崇敬しているのをみかけた。

そして彼の死後、パイシオス長老は彼の墓でも他の場所でも奇跡をあらわし続けている。私は、彼の死後に起こった出来事が文書で記録されて世に出ることを望んでいる。それは神の栄光のためであり、現代の信んじない人々の利益になるからである。彼らには、精神的に非常に大きな欲求があり、それを満たす必要性があるのに、彼ら自身はそれが分からないからである。

我々すべてが彼の祝福をいただけますように!

テッサロニカ 1999年

ソース:

http://nagoya-orthodox.com

http://nagoya-orthodox.com/ja/パイシオスの伝記.html

名古屋正教会 NAGOYA ORTHODOX CHURCH

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聖アグネス St Agnes (291年 – 304年1月21日)

13歳 で殉教したと伝えられる。ローマの聖アグネスや聖イネス、聖女アグネス、聖女アニエスとしても知られている。

また、彼女の名前はラテン語で子羊を意味するagnus(アグヌス、アニュス)と似ていることからしばしば子羊と一緒に描かれるが、実際はギリシャ語の形容詞で“処女の、純潔な、神聖な”という意味のhagnē (ἁγνή) に由来しているとされている。

聖アグネスは291年にローマの上流階級でキリスト教徒の一家に生まれた、うら若く聡明な美少女で、13歳になった304年1月21日にローマ帝国皇帝ディオクレティアヌスの統治下で殉教した。

長官センプロニウスは、アグネスが自分の息子と結婚することを望んだが、アグネスがそれを拒否すると、センプロニウスは彼女がキリスト教徒であると告発した。アグネスは非キリスト教の女神 (Vesta)に供物を捧げるか、売春宿に行くかの選択を迫られたが、その信仰から要求を拒否をした。アグネスの衣服は剥ぎ取られ、一糸まとわぬ姿で売春宿へ連れていかれたが、神により彼女自身の髪を伸ばされたため、アグネスの身体は足まで隠された。アグネスが売春宿に入ると、神から遣わされた天使が待っており彼女を守り取り囲んだ。男たちは彼女を見ることも近づくこともできなかった。アグネスは火刑に処されることとなった。

士官は大きな火をおこすことは出来ず、アグネスを焼くはずの炎は二つに別れてそれぞれ争い、彼女は火を感じることはなかった。その後、士官はアグネスの身体を剣で突き刺すことを命じ、アグネスは殉教した。

聖アグネスは若い少女たちの守護聖人であるが。

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アラスカの聖インノケンティ

Saint Innocent of Alaska (+1879)

アラスカのインノケンティ(1797年8月26日 – 1879年3月31日)は、正教会の主教であり聖人(成聖者)。

アレウト語(Aleut language)の表記法も考案し翻訳を行いつつアラスカとシベリアへの宣教を行った事から、「北米の亜使徒」「アラスカとシベリアの光照者」との称号が付される事がある。晩年にはモスクワ府主教も務めた。

同名人物との区別の際、地名·尊称のほか、姓であるヴェニアミノフ も用いられる。

日本の函館を訪れた事があり、日本で初めて主教祈祷による聖体礼儀を行った人物でもある。また、日本の亜使徒聖ニコライとニコライエフスクと函館で会っており、ニコライに日本語学習に専心するよう指導した。

生涯

幼年 – 青年時代

1797年8月26日にイルクーツク州アンギンスコエ村 に生まれる。俗名はイヴァン·エヴセエヴィチ·ポポフ。後に司祭となった際の名として記述される「イオアン·ヴェニアミノフ」の「イオアン」は、ロシア語表記「イヴァン」の、教会スラヴ語再建音によるものである。

1807年にイルクーツク神学校に入学。1817年の卒業前に結婚し、輔祭となってイルクーツクの生神女福音聖堂に奉職。1818年に神学校を卒業すると、教会学校の講師に任じられ、1821年には同教会の司祭に任じられる。1823年までの短い任であったが、人々の尊敬と信頼を得ていたと伝えられる。

アラスカ宣教·アレウト語による翻訳と執筆

1823年5月7日、新しい任地であるアリューシャン列島の島、ウナラスカに向かってイルクーツクを出発するが、交通機関の発達していない当時、旅は困難を極め、目的地であるウナラスカについたのは翌1824年7月29日のことであった。

到着してからまず聖堂を建てるが、大工としての才能もあったイオアン(インノケンティ)は原住民に建築を指導しつつ、自らも工事に参加。『主の昇天聖堂』が完成する。

また、アレウト語(Aleut language)を学んだ。当時文字を持たなかったアレウト語にアルファベット表記法を考案。正教要理、福音書をアレウト語に翻訳。『天国への道しるべ』(”A Directive of the Way to the Kingdom of Heaven”)もアレウト語で書いた。

管轄していた教区は広大であり、その宣教·指導には大変な困難があった。島から島へと、バイダルカと呼ばれるカヌーで海峡を横断して管轄区を回ったが、そのカヌーは一人が座るのが精一杯という代物であり、風雨の中、海をカヌーで渡る事も珍しくなかった。風雨の中で身体全体を濡らしてしまった後は、ユルタと呼ばれるゴミの中で休息をとるのが慰めであった。そのような状況の中、各地で聖体礼儀·痛悔機密などの奉神礼を司祷し、説教を行って回った。

イオアン神父(インノケンティ)一家は最初、泥土で作った小屋に住んでいたが、その後自分で木造小屋を建て、柱時計、家具も自分で作り、漁業用の網まで自分で作った。この間、アリューシャン列島の地誌·民俗の研究を行い、その成果は現代でも貴重な資料となっている。

1834年、10年間住んだウナラスカを去り、シトカに移る。ここでも同様の苦難の中で宣教を行った。

1839年、家族をイルクーツクに帰し、自分はサンクト·ペテルブルクにアレウト語の翻訳書を出版するために出立した。モスクワ府主教フィラレート(後にフィラレートも列聖されている)の配慮などにより、この出版は実現した。

アラスカ主教·モスクワ府主教

サンクト·ペテルブルク滞在中、イオアン神父は妻が永眠したという報せを受ける。これを知った聖務会院と皇帝ニコライ1世は、イオアンに修道士となり、さらに初代のアラスカおよびカムチャッカの主教となるよう盛んに勧めた。イオアンは長い祈りの後、この申し出を受けた。

こうして、当初は妻帯司祭であったイオアン神父であったが(正教会では司祭の前段階である輔祭に叙聖される前であれば結婚が可能)、妻が永眠したことで推されて修道士となり(正教会では妻帯司祭が妻の死没後に修道士となる事は珍しくない)、1840年に初のアラスカ主教となることとなった(主教は修道士から選ばれる)。

修道名であるインノケンティは、シベリアの最初の正教伝道者であるイルクーツクのインノケンティに因んだものである。

1841年、主教となったインノケンティはシトカに戻る。伝道学校、小学校、孤児院を設置。1848年には天使首ミハイル大聖堂を建立した。この大聖堂は1966年に類焼のため全焼してしまったが、1976年に原型に忠実な形で再建された。

1850年から1860年にかけてシベリアの原住民とアムール河流域の原住民に伝道を行った。その中には現地の朝鮮人も含まれていたとされる。カムチャッカにも赴き、その際暴風雨を避けて函館に寄港した折、日本にいたニコライ·カサートキンと出会い、助言を与えた(後述)。

1862年、シトカからシベリアのブラゴヴェシチェンスクに主教座が移り、インノケンティも住まいを移した。1867年、前任のフィラレートを継いで、当時ロシア正教会で最高の地位であるモスクワおよびコロムナの府主教となる。インノケンティは元は妻帯司祭であり学歴も高くなかったが、その伝道活動の熱心さと成果が評価されての選出であった。

府主教となったインノケンティは1870年、ロシア正教会史上初となる伝道機関を組織化し、自ら伝道協会協会長となった。各地向けに作られた伝道会社の伝道対象地域としては、中国、ウラル·アルタイ、シベリア、日本、朝鮮が挙げられる。

1879年3月31日永眠。不朽体は至聖三者聖セルギイ大修道院の生神女就寝大聖堂に安置されている。

日本のニコライとの出会い

1860年にニコライエフスクで、1861年に函館で、インノケンティと、日本に正教伝道を行おうとしていたニコライ·カサートキンが会っている。現場に居る者の貴重な伝道の体験談を、ニコライはインノケンティからニコライエフスクで聞く事となった。
インノケンティ大主教(肩書き当時)が函館に立ち寄ったのは、軍艦でカムチャッカに向かう途中暴風雨に会ったため函館に寄港したことによるものであり、多分に偶発的であった。函館でインノケンティは領事館内の聖堂で聖体礼儀を行っているが、主教祈祷による聖体礼儀は日本におけるものとしてはこれが初めてである。

函館で二人が会った時のものとして、以下のようなエピソードが伝えられている。

インノケンティ大主教がニコライの部屋を訪れると、ニコライの机上にはフランスとドイツの神学書が置かれていた。インノケンティがニコライに、何のためにこれを読んでいるのかをたずねると、ニコライはフランス語·ドイツ語を忘れないように読んでいると答えた。インノケンティは「君は今こんなことをしている場合ではない。専ら日本語を学ぶように」と叱ったと伝えられる。

それまでもニコライは日本語を学んでいたが、この後さらに日本語の学習に熱を入れ、のちに新約聖書·祈祷書を、中井木菟麻呂とともに、漢文訓読体に近い文体で翻訳するまでに日本語に習熟した。

称号·呼称

英語媒体(主にアメリカの正教会に係るもの)では北米などへの宣教の業績が重視されて「北米の亜使徒(Equal to the Apostles of North America)」「アラスカとシベリアの光照者(Enlightener of America and Siberia)」といった呼称が使われる傾向がある。

これに対しロシア語媒体(主にロシアの正教会に係るもの)ではモスクワ府主教としての経歴が重視されて「モスクワおよびコロムナの府主教·成聖者インノケンティ」と呼ばれる傾向がある。

他方、「アラスカとシベリアの光照者·モスクワ府主教(Enlightener of America and Siberia and Metropolitan of Moscow)」のように、両者が合わせて使われる事もある。

こうした呼称の地域差は本記事のインノケンティに限らず正教会の聖人によくみられるもので、例えばアンドロニク·ニコリスキイはロシア正教会では「ペルミの主教」として記憶されるが、日本正教会では「初代京都の主教」として記憶される。

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ボロスの長老マクリナ

(Blessed Makrina of Volos, Greece, +1995)

聖師父たちは、「無駄話は火のようなものだ」と言いました。私たちは無駄話を控えるべきです。
火で森が丸ごと焼かれ、山が裸になるように、無駄な話は、私たちの霊と心からすべての善きものを奪います。人間は錆びたブリキ缶のようになってしまうでしょう。

+ボロスの長老マクリナ



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今日とはエジプトの聖マリアの記憶日です

Saint Mary of Egypt (+5th-6th ce.)



今日とはエジプトの聖マリアの記憶日です。

今週の主日(エジプトのマリヤ主日)にも記憶される聖マリアは、色んな教訓、例えば、謙遜の心や痛悔の大事さ、領聖の重要性、そして、神は悪人にも悔い改め、救われるチャンスを与えてくださるということを教えてくれる聖人です。






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今日はロシア聖人の中でも最も尊敬される聖人の1人

Today one of the most respected Saints of Russian Saints



今日はロシア聖人の中でも最も尊敬される聖人の1人、サロフの聖セラフィムの記憶日(永眠/第2回目の不朽体発見)です。

18世紀から19世紀という、教会の聖伝の大切さが失われかけた時期に活動した修道司祭で、テオシスとは何か、真の祈り·信仰とは何かをその生涯を以って見せてくれた聖人です。




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クロンシュタットの聖イオアン

Saint John of Kronstadt (+1908)


* 私たちの邪悪さが神の言い尽くせない善良さと憐れみに勝ることはなく、私たちの鈍さが神の叡智に勝ることもなく、私たちの弱さが神の全能に勝ることもない。



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聖ポルフィリイ

Saint Porphyrios of Kafsokalivia, Greece (+1991)

* 人を聖にするのは愛です。


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聖イグナティ·ブリャンチャニノフ

Saint Ignatius Bryanchaninov (+1867)


知恵に満ちた雄弁な言葉で祈ってはならない。むしろ幼子のような片言、赤子のような単純な思いを主に捧げなさい。
主は我々に向かって「爾ら、もし転じて、幼子のごとくならずば、天国に入るを得ず」と言われた。

https://twitter.com/Nicholas199903

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聖ヨアンネス·クリュソストモス

Saint John Chrysostom (+407)

* 神は考えられる全ての人ー父親、母親、友人、そして私たち自身よりも私たちを愛しておられる。


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モスクワの総主教聖ティーホン 

Saint Tikhon of Moscow (+1925)

* 水が丘から谷に流れ落ちるように、神もへりくだる者に降り、共にいてくださる。





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セルビアの総主教パヴレ

Paul Patriarch of Serbia (+2009)

実は、世の中には善き人がたくさんいます。

もし、あなたの周りに善人が誰もいないと感じたのなら、あなた自身がその善人になりなさい。




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Saint Sergei Sugihara of Japan (+1986)

Saint Nicholas Kasatkin, Equal of the Apostles, Archbishop of Japan (+1912)

Saint Andronik Nikolsky Bishop of Kyoto, Japan & Perm, Russia, hieromartyr (+1918)