アンドロニク ニコリスキイ
St Andronik Nikolsky of Kyoto, Japan (+1918)
アンドロニク(修道誓願前の姓:ニコリスキイ、Andronik (Nikolsky)、1870年8月13日(ユリウス暦の8月1日) – 1918年6月20日 (ユリウス暦の7月7日)は、ロシア正教会と日本正教会の主教。正教会で聖人。日本正教会では初代京都の主教でもあった事から、「ペルミの神品致命者聖アンドロニク」の称号のほかに「初代京都の主教聖アンドロニク」の名でも呼ばれる。
ロシア革命時に、生き埋めの上で銃殺され致命した事で知られる。
生涯
1870年8月1日、ヤロスラヴリ教区のムィシュキン村(Myshkin)に生まれる(俗名:ウラジーミル·ニコリスキイ)。父は輔祭。
1891年にヤロスラヴリ神学校を卒業すると、モスクワ神学大学に入学。在学中の1893年8月1日に修道士となり、アンドロニクの修道名を授かる。1895年7月22日、修道司祭に叙聖された。その後、クタイシの神学校に赴任する。1898年には1年弱の期間、来日して日本正教会での修道司祭の任にあった。1900年には掌院に昇叙された。
京都の主教として
1906年11月、ロシア正教会の聖務会院によってニコライ·カサートキンを輔佐する主教として、来日経験のあるアンドロニクを選ぶ決定がなされた事により、掌院アンドロニクは京都の主教に叙聖された。叙聖式はアレクサンドル·ネフスキー大修道院の大聖堂で行われた。
1907年3月8日、京都正教会の司祭シメオン三井道郎が出迎える敦賀港に入港。1907年4月7日の生神女福音祭は京都正教会(生神女福音聖堂)で司祷している。
同年4月下旬には「京都の主教」のタイトルではあるが大阪を常任地とする決定を東京滞在中に行った(常任地をタイトルと違う場所に設定する事は正教会ではあまり珍しく無い)。聖枝祭、受難週、復活大祭、光明週間、フォマの主日を大阪正教会で司祷している。しかしながら体調の悪化により滞在僅か3ヶ月で6月中旬にロシアに帰国した。
ロシア革命により致命
帰国後10年間、1898年に共に来日した経験のあるセルギイ·ストラゴロツキイと共にロシア正教会の中枢で活躍したが、ロシア革命によって無神論を掲げ宗教弾圧を行うボリシェヴィキが政権を握るとロシア正教会は大弾圧を蒙った。
大主教アンドロニク(1918年4月にアンドロニクは大主教に昇叙されていた)は1918年6月22日、ヴェーチェーカーによりペルミの森で自ら掘らされた墓穴に生き埋めにされた上で銃殺され致命した。47歳であった。
列聖
2000年8月にロシア正教会はアンドロニクを新致命者の一人として列聖。列聖式には日本正教会から、首座主教である全日本の府主教ダニイル主代郁夫と、東日本の主教セラフィム辻永昇が陪祷した。2004年2月には京都正教会に聖アンドロニクのイコンが、京都正教会の制作依頼によりモスクワから届けられている。
<>
今日はシリアの聖エフレムの記憶日です
Today is the memory day of St. Ephrem in Syria
今日はシリアの聖エフレムの記憶日です。聖エフレムはシリアで活動した修道輔祭で、大斎(Great Lent)期間中唱えられる「聖エフレムの祝文」をはじめとする数多くの祈祷文や聖歌を作成し、正教会の伝統に大きな影響を与えた聖人です。
アリウス派に反対した神学者としても知られています。
https://twitter.com/nicholas199903
<>
至聖なる生神女よ、我らのために祈りたまえ。
Holy Virgin Mary Mother of God (Holy Theotokos) pray for us!
<>
日本の聖ニコライ、我らのために祈り給え
Saint Nicholas Kasatkin of Japan, pray for us
<>
十字架はいのちの樹
The Cross is the Tree of Life
十字架はいのちの樹
そこからわたしたちはいのちを受ける
十字架は、避けて見ないようにするものではない
それを受け入れ、生きるように呼んでいる
<>
わたしたちにも駆け寄ってくれる
Run up to us
聖母が十字架を背負ったイエスに駆け寄って
いっしょに血まみれほこりまみれになりながら
まなざしで語り合うところだ
わたしたちの天の元后は
じぶんが汚れることなんか関係なく
わたしたちにも駆け寄ってくれる
<>
今日は正教会のラザリのスボタ
Saint Lazarus the friend of Jesus
今日は正教会のラザリのスボタ。
イイススの友人で、イイススによって蘇らされた人物·ラザリ(ラザロ)の復活を記憶する日です。
伝承によると、後にラザリはキプロス教会の初代主教になったようです。
<>
今日が記憶日のレスボスの聖致命者ラファエル、ニコライ、イリニの伝承がすごく興味深かったので紹介したいと思います
Saints Raphael, Nickolas and Irine the Holy Martyrs on Lesbos Island, Greece (+1463)
今日が記憶日のレスボスの聖致命者ラファエル、ニコライ、イリニの伝承がすごく興味深かったので紹介したいと思います。1959年、レスボス島のミティリニではある小さい聖堂の修復工事が行われていました。
ある日、工事現場で聖人の不朽体(聖遺物)と思われる遺体が発見されました。
その日の夜、多くの島民の夢に聖人たちと生神女が現れ、その遺体が誰のものなのかを語りましたが、不思議なことに皆同じ夢を見たというのです。
その夢によると、その遺体は致命した司祭ラファエル、輔祭ニコライ、そして少女イリニでした。
彼らは1463年、生神女に捧げられた修道院で暮らしていたところ、島を侵略したオスマン軍に捕らえられ、拷問の末致命しました。
最初は聖ラファエルの不朽体だけ発見されましたが、住民たちの見た夢を根拠に捜査が進められ、1960年頃には聖ニコライ·聖イリニの遺体も発見され、聖堂に安置されました。
<>
日本の聖ニコラス (+1912年2月16日)
Saint Nickolas Kasatkin of Japan
ニコライ (日本大主教)
ニコライ(修道誓願前の姓:カサートキン、 1836年8月1日(ロシア暦) – 1912年2月16日)は日本に正教を伝道した大主教(肩書きは永眠当時)。日本正教会の創建者。正教会で列聖され、亜使徒の称号を持つ聖人である。
「ロシア正教を伝えた」といった表現は誤りであり(後述、ニコライ本人も「ロシア正教を伝える」のではなく「正教を伝道する」事を終始意図していた。
ニコライは修道名で、本名はイワン·ドミートリエヴィチ·カサートキン。日本正教会では「亜使徒聖ニコライ」と呼ばれる事が多い。日本ではニコライ堂のニコライとして親しまれた。
神学大学生であった頃、在日本ロシア領事館附属聖堂司祭募集を知り、日本への正教伝道に駆り立てられたニコライは、その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中も日本にとどまり、日本で永眠した。
生涯
初期
スモレンスク県ベリスク郡ベリョーザの輔祭、ドミトリイ·カサートキンの息子として生まれる。母は5歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー·ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。
在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル·パウェル祭の日、修道輔祭に叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。ミラ·リキヤの奇蹟者聖ニコライは東方教会において重視される聖人であり、好んで聖名(洗礼名)·修道名に用いられるが、ニコライも奇蹟者聖ニコライを守護聖人として「ニコライ」との修道名をつけられている。
函館時代
翌1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、元大館藩軍医の木村謙斉から日本史研究、東洋の宗教、美術などを7年間学んだ。また、仏教については学僧について学んだ。
ニコライは慶応4年4月自らの部屋で密かに、日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼、南部藩出身浦野大蔵らに洗礼機密を授けた。この頃、木村が函館を去った後の後任として新島襄から日本語を教わる。新島は共に『古事記』を読んで、ニコライは新島に英語と世界情勢を教えた。
懐徳堂の中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻·旧約の一部)の翻訳·伝道を行った以後、精力的に正教の布教に努めた。
明治2年(1869年)日本ロシア正教伝道会社の設立の許可を得るためにロシアに一時帰国した。ニコライの帰国直前に、新井常之進がニコライに会う。
ニコライはペテルスブルクで聖務会院にあって首席であったサンクトペテルブルク府主教イシドルから、日本ロシア正教伝道会社の許可を得ることができた。1870年(明治3年)には掌院に昇叙されて、日本ロシア正教伝道会社の首長に任じられた。ニコライの留守中に、日本では沢辺、浦野、酒井の三名が盛んに布教活動を行った。
明治4年(1871年)にニコライが函館に帰って来ると、沢辺の下に身を寄せていた人々が9月14日(10月26日)に洗礼機密を受けた。さらにニコライは仙台地方の伝道を強化するために、小野荘五郎ほか2人を派遣した。ニコライは旧仙台藩の真山温治と共に露和辞典の編集をした。
東京時代
明治4年12月(1872年1月)に正教会の日本伝道の補佐として、ロシアから修道司祭アナトリイ·チハイが函館に派遣された。明治5年ロシア公使館が東京に開設されることになった。函館の領事館が閉鎖されたが、聖堂は引き続き函館に残されることになったので、ニコライはアナトリイに函館聖堂を任せて、明治5年1月に築地に入った。ニコライは仏教研究のために外務省の許可を得て増上寺の高僧について仏教研究を行った。
明治5年(1872年)9月に駿河台の戸田伯爵邸を日本人名義で購入して、ロシア公使館付属地という条件を付け、伝道を行った。明治5年9月24日東京でダニイル影田隆郎ら数十名に極秘に洗礼機密を授けた[注釈 1]。
明治7年(1874年)には東京市内各地に伝教者を配置し、講義所を設けた。ニコライは、神奈川、伊豆、愛知、などの東海地方で伝道した。さらに京阪地方でも伝教を始めた。
明治7年5月には、東京に正教の伝教者を集めて、布教会議を開催した。そこで、全20条の詳細な『伝道規則』が制定された。
明治8年(1875年)7月の公会の時、日本人司祭選立が提議され、沢辺琢磨を司祭に、酒井篤礼を輔祭に立てることに決定した。東部シベリアの主教パウェルを招聘して、函館で神品会議を行い、初の日本人司祭が叙任された。このようにニコライを中心に日本人聖職者集団が形成された。さらに、正教の神学校が設立され、ニコライが責任を担った。
明治9年(1876年)には修善寺町地域から岩沢丙吉、沼津市地域から児玉菊、山崎兼三郎ら男女14名がニコライから洗礼を受けた。
明治11年(1878年)、ロシアから修道司祭のウラジミール·ソコロフスキーが来日して、ニコライの経営する語学学校の教授になり、明治18年までニコライの片腕になった。
明治12年(1879年)にニコライは二度目の帰国をし、明治13年に主教に叙聖される。その頃の教勢は、ニコライ主教以下、掌院1名、司祭6名、輔祭1名、伝教者79名、信徒総数6,099名、教会数96、講義所263だった。同じ年、正教宣教団は出版活動を開始し、『正教新報』が明治13年12月に創刊された。愛々社という編集局を設けた。
明治13年(1880年)イコンの日本人画家を育成するために、ニコライは山下りんという女性をペテルブルグ女子修道院に学ばせた。3年後山下は帰国し、生涯聖像画家として活躍した。
明治15年(1882年)に神学校の第一期生が卒業すると、ロシアのペテルブルグ神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣した。
明治17年(1884年)に反対意見があり中断していた、大聖堂の建築工事に着手して、明治24年に竣工した。正式名称を復活大聖堂、通称はニコライ堂と呼ばれた。
明治26年(1893年)ニコライの意向により、女流文学誌『うらにしき(裏錦)』が出版された。明治40年まで存続し明治女流文学者の育成に貢献した。
明治37年(1904年)2月10日に日露戦争が開戦する前の、2月7日の正教会は聖職者と信徒によって臨時集会を開き、そこでニコライは日本に留まることを宣言し、日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。
内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。
神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。
不朽体
1970年、谷中墓地改修の際に棺を開けると不朽体が現れた。同年、ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒·大主教·ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ、聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。
ニコライが伝道した「正教」
ニコライが「ロシア正教を伝えた」とする媒体が散見されるが、「ロシア正教会」「ロシア正教」は最も早くに見積もっても1448年に成立した独立正教会の組織名であり、教会の名ではない。「正教を伝えた」が正しい表現である。ニコライは「(組織としての)ロシア正教会に所属していた」とは言えるが、あくまで「正教を伝えた」のであり、「ロシア正教会」という「組織」を伝えた訳ではない[注釈 2]。
正教会は1カ国に一つの教会組織を具えることが原則であり各地に正教会組織があるが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、グルジア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会に教義上、異なるところは無く、相互の教会はフル·コミュニオンの関係にあり、同じ信仰を有している。
<>
聖ニコライの讃詞
Hymn of Saint Nikolai Kasatkin of Japan (+1912)
使徒と等しく同座なる者
忠実にして神智なるハリストスの役者
聖なる神に選ばれたる笛
ハリストスの愛に満ちたる器
我が国の光照者 亜使徒大主教聖ニコライよ
爾の牧群のため 及び全世界のために
生命を保つ聖三者に祈り給え
ソース:
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
<>
今日はロシアの新致命者たちの記憶日です
Today is the memory day of the New Russian Martyrs
今日はロシアの新致命者たちの記憶日です。
ロシア革命後のソビエト政府による迫害で、皇帝や総主教をはじめとする数多くの正教徒が殉教しました。
革命前、5万以上だった教会の数は20年で数百まで減り、迫害がピークに達した1937年には一年で約16万人が逮捕され、約9万人が処刑されました。
https://twitter.com/nicholas199903
<>
ロシア出身の正教会聖人は多いですが
There are many Orthodox Saints from Russia
ロシア出身の正教会聖人は多いですが、「亜使徒(使徒に等しい者)」という称号が与えられたのは4人だけです。
日本の聖ニコライは、ロシアをキリスト教化させた聖オリガ·聖ウラジミールに続き、3番目に亜使徒の称号が与えられた聖人です。
ちなみに、4人目はアラスカの聖インノケンティです。
https://twitter.com/nicholas199903
<>
聖アフメト
Saint Ahmed of Constantinople, Asia Minor (+1682)
聖アフメトは17世紀の致命者で、元々はオスマン政府の役人でした。
ロシア人の妾の影響で正教会を知った彼は、聖体礼儀に参祷した際、神秘的な体験をした事がきっかけで正教に改宗しました。その後、改宗した事がばれ、拷問を受けましたが、自分の信仰を捨てず致命しました。に感謝
<>
ヤコブ (ゼベダイの子)
イエス·キリストの十二使徒のひとり
Saint Apostle James, son of Zebedee (+44)
ゼベダイの子のヤコブは新約聖書に登場するイエスの使徒の一人で、使徒ヨハネの兄弟である。アルファイの子ヤコブと区別して「大ヤコブ」とも言われる。聖人の概念を持つ全ての教派で、聖人として崇敬されている。正教会では聖福音者イオアンの兄聖使徒イアコフと呼ばれる。
『マルコによる福音書』1:19-20によるとヤコブは父ゼベダイ、兄弟ヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていたところをイエスに呼ばれ、そのまま父と雇い人を残してヨハネと共に弟子になった。彼ら二人は「ボアネルゲス」(雷の子ら)とよばれていたようである(→ゼベダイの子)。ヤコブはエルサレム教会においても一貫して中心的な立場を占めていたが、『使徒行伝』12:2によるとユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ·アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。44年頃のことと推定される。
正教会での記憶日は4月30日(ユリウス暦を使用する正教会では5月13日に相当)。
ソース:
『正教改暦 2008年』日本ハリストス正教会教団発行
<>
聖イグナティ·ブリャンチャニノフ
Saint Ignatius Bryanchaninov (+1867)
聖イグナティ·ブリャンチャニノフは敬神家、多数の書を著した作家、高徳の修道士、信仰生活の教師とされ1988年に成聖者として列聖されました。彼の著作集は「聖師父の教えの本質を深く掘り下げ、聖師父の精神を受け継いでおり、現代の信徒に読み易く、分かり易いもの」とロシア正教会の公会決議文に入っています。正教会では聖師父の書いた著作を救いに与る上で大切なものとして読まれてきました。難しいことを分かり易く、分かり易いことを深く書かれた本書は聖師父の言葉から聖書の理解へと進み、信徒の信仰生活における霊的な糧となるに違いありません。
ソース:
https://www.orthodox-sendai.com
https://www.orthodox-sendai.com/blank-22
ORTHODOX SENDAI
日本ハリストス正教会教団
東日本主教々区宗務局
<>
聖使徒ペトル
Saint Peter the Apostle
ペトロ (語: Petrus)(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス·キリストに従った使徒の一人。シモン·ペトロ、ペテロ、ケファともいわれる。
本名はシモン(ヘブライ語読みでは「シメオン」שמעון。「シモン」は「シメオン」の短縮形)であるが、イエスにより「ケファ」(Kêpâ、アラム語で岩の断片、石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」という呼び名で知られるようになる。
パウロも書簡の中で、ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」[3]と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペトロが受けるだろうとしている。
『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。
『ルカによる福音書』ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。
ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており[8]、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること[9]などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、主イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。
イエスの受難においてペトロは剣を抜き、大祭司の僕マルコスの右耳を切り落とすが[10]、その後イエスを3度否認したことが福音書に書かれている。そうなることをイエスが事前に予告していたことを思い出した時「激しく泣いた」とされている[11][12][13][14]。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている[15]。
『使徒言行録』ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。ヤッファでは亡くなった少女タビタを生き返らせる奇跡を行ない、また清い者·清くない者、あらゆる人々に宣教するよう幻を見て、その近くのカイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長をイエスの道へ導いている。
<>
シラクサのルチア
St Lucy of Sicily, Italy
シラクサのルチア (イタリア語:Santa Lucia, 英語:Saint Lucy 伝承による生没年:283年-304年)は、聖ルチアの名で知られるキリスト教の殉教者。目、及び視覚障害者、そしてシラクサの守護聖人。
記念日は、西欧では12月13日。
『ルチア』とはラテン語で光を意味するLuxまたはLucidから派生した名前である。
確かなことは、ディオクレティアヌス帝支配下のシラクサで304年に殉教したという事のみである。彼女の犠牲はローマに広まり、6世紀には彼女を信仰の守護者として、教会全体で讃えるようになった。
ローマ人であったルチアの父が死ぬと、彼女と母エウティシアは何の後ろ盾もなかった。エウティシアは4年あまりも瀉痢に苦しんだが、ルチアは聖女シチリアのアガタの奇跡を聞きつけ、ミサに参加した。エウティシアの病が癒されるよう、2人は聖アガタの墓前で一晩中祈り続けた。いつしか母子は眠ってしまうと、ルチアの枕元に聖アガタが姿を見せ、『私がそうしたように、あなたはすぐシラクサの栄光となるのです。』と言った。エウティシアはたちまち全快した。
エウティシアはルチアを異教徒と政略結婚させようとしたが、ルチアは自身の処女を守るために、持参金を貧者への施しとしてほしいと拒んだ。エウティシアは持参金が良い遺産になると示唆したが、ルチアは逆に母を説き伏せた。自分にはより高貴な婚約者(すなわちキリスト)がいるというのである。その異教徒は思いのままにならないルチアに怒り、彼女を実はキリスト教徒であり、神への犠牲として火炙りにすべきだと密告した。ルチアを引き立てに来た兵士たちは、彼女を動かすことができなかった。ルチアは聖霊に満たされた、山のように強固な存在となっていたのである。牛の一群に彼女をつないでも動かなかった。彼女の喉元に剣を突き立てても、ルチアは自らを迫害する者たちに予言していたのである。最後の拷問として、ルチアは両目をえぐり出された。奇跡が起き、ルチアは目がなくとも見ることができた。絵画や像では、彼女はしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれる。
<>
No comments:
Post a Comment